迷ってへたれて抱きしめて #15

 
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 こども図書館でしばらくを過ごし、僕たちは純粋な子どもの可愛さに触れた。どうやら月野さんはよくこの図書館に来ているようで、
「あ、おねーちゃんだ!」
 彼女を見つけて声をかけてくる子どもがいたくらいだ。
「月野さんの家、ここから近いの?」
「いえ、電車を使わないといけないのでそこまで近いとは言えないですね」
「でもよく来るんだ?」
「はい。好きな場所ですから」
「ねーねーおねーちゃん、そのひとだれー?」
 月野さんと仲が良いらしい女の子が僕を指差した。見慣れぬ僕に興味を持ったのかもしれない。
「この人はね、遥お兄ちゃんって言うんだよ」
 月野さんが優しい表情で女の子に言った。
「おにーちゃん? おねーちゃんのおにーちゃん?」
 首をかしげる女の子。月野さんは首を振って言いなおす。
「ううん、そういうわけじゃないの。お姉ちゃんのお友達だよ」
「おねーちゃんのおにーちゃんはおねーちゃんのおともらちなの?」
 ますます首が傾いた。ちょっと混乱してしまったようだ。
「ええと、そうじゃなくて……」
 月野さんも少しだけ困り顔。うむ、ここは……
「よしよし、お兄ちゃんから教えてやるぞー」
 まあ僕の番だよな。
  
 僕はできるだけ優しい笑顔と優しい声色、口調を心がけつつ、屈んで女の子と同じ目線になった。
「僕の名前は遥だ。秋本遥」
「はるか?」
「うん、遥だ。よろしくね。それで、えっとな、君にとって琴美お姉ちゃんは、お姉ちゃんだろ?」
「うん! おねーちゃんはおねーちゃんだよ!」
「うんうん、そうだよな。そして、僕はそのお姉ちゃんのお友達。お兄ちゃんじゃなくてお友達。分かる?」
「うーんと、はるかはおねーちゃんのおともらち……うん、覚えた!」
「おー、よし、良い子だ。じゃあ最後に、もういっこだけ覚えられる?」
「うん、わたしいいこだからね!」
「じゃあ覚えておいて。君のお姉ちゃんのお友達、遥は、今日から君のお兄ちゃんだ。お姉ちゃんのお友達だから僕もお兄ちゃんになる。僕たちは君の、お姉ちゃんとお兄ちゃんだ」
「はるかおにいちゃん?」
「そう、遥お兄ちゃん」
「はるかおにいちゃん!」
 ……なんとか、分かってくれたみたいだな。理屈とかからすれば、全く論理的ではないんだけど、子どもには関係ないことだ。事実だけ伝わればそれで良い。
「はるかおにいちゃん! わー! おにいちゃん!」
「おう、お兄ちゃんだぞー」
 しかし良い子じゃないか、この子。
「ろりこんだ! なんかやだ!」
「ろりっ……!?」
 ………………。
  
 ……良い子じゃないか、とっても。うん。知らない男の人にはついていかない。よく教育されたお子さんで。
  
 ふふ、ふふふ。
  
 はあ。
  
 嫌なのかよ……。
「あの、秋本さん……大丈夫ですか?」
「あー、うん。子どもって、純粋だなあ……」
 僕達は図書館を後にした。
「もうお昼ですね」
「そうだね、気づけば」
 図書館で過ごしたことによって、時間はいつの間にか正午を回り、お昼時となっていた。
「……やっぱりちょっとショックでした?」
 僕の声に覇気がないことを感じ取ったのか、月野さんが気遣ってくれる。
「はは、いやまあ、しょうがないよね」
 そう、しょうがない。とはいえ、あの「なんかやだ!」は引きずるなあ。「なんか」、だもんな。明確な理由はないけど「なんか」嫌だったんだもんな。
「僕わりと子どもに好かれるほうなんだけどな……」
 あーあ。
「あの、秋本さん」
「ん?」
「良かったら、このすぐ近くに、図書館の帰りにたまに立ち寄るお店があるんですけど、お茶しませんか? ご飯も食べられますし。そこの紅茶がとっても美味しいんです。それで少しは、気分転換になるかもしれないですし……」
「紅茶か……」
 これもきっと月野さんの気遣いだ。優しい人だよな、本当に。
「うん、じゃあ行こう」
 紅茶は好きだし、断る理由は何もなかった。
  
 ――そのお店は、確かにすぐ近くにあった。
  
 静かで、少し暗めな店内は雰囲気がとても良い。が、ちょっと入りにくい気もするな。なんというかすごい大人っぽい。ダンディーなおじさまがコーヒー飲んでそう。
  
 こんなところにちょこちょこ立ち寄っているとは……月野さんすごいな。
「一階はこんな感じですけど、二階は大きな窓があってもっと明るい感じなんです」
「二階もあるのか」
「この時間だと、きっとそっちのほうが気持ちいいと思います」
 一階のカウンターで注文を済ませると、僕は月野さんについていくようにして二階に上がった。
  
 すると確かに、雰囲気が違う。一階がアダルティーでダンディー、静かなひとときを過ごす場なら、二階はもっとカジュアルで和気あいあいとした楽しげな雰囲気だ。実際、楽しそうに会話をしている女性二人組とか、家族連れがいる。外の光がほどよく取り込まれていて明るかった。
  
 休日であり、席の大半が埋まっていて、そこそこ人気のある店だと分かる。座る席を探していると、ちょうど壁際の隅が空いたので座った。こういうときは個人的に、隅が落ち着く。
「私に合わせてサンドイッチで良かったんですか? 男の子ってもっと食べるんじゃ……」
 注文したサンドイッチをさっそく食べようとしたところ、言われる。まあ確かに量としては少ないと言っていいし、本当ならカレーとか食べたいところだった。
  
 が、今回は、食事よりもどちらかというと飲み物のほうがメインだ。
「紅茶と一緒にってことを考えると、この方が良いかなって」
 月野さんおすすめの紅茶は、さきほどから良い香りをさせていた。美味しそうだ。カレーのスパイスの風味によって邪魔するのはもったいない。
「とにかく食べよ」
「そうですね。じゃあ、いただきます」
「いただきます」
 トーストされ焼き色が美味しそうなそれを手に取り、こぼさないように気を付けながら一口頬張った。
「うまっ!」
 噛んだ瞬間、ザクッと良い音を立てたパンは、それと同時にとても良い風味を僕にもたらした。小麦の香りがしっかりしている。挟まれている肉厚のベーコンとも相性はぴったりだ。
「美味しいですね、これ。実は初めて食べたんですけど」
「初めてだったの?」
「はい。いつもは大体夕方に来るので……帰ったら夕飯ですし、紅茶を飲むだけなんですよ」
「なるほどね」
「これ、結構ボリュームありますしね」
「確かに」
 パンは少し厚めな気がするし、ベーコンも食べ応えがある。さすがに男の僕は、これだけでお腹いっぱいというわけにはいかないが、女の子なら食事として十分な量かもしれない。
  
 僕はサンドイッチの味を楽しみながら、それによって生じた口の渇きを潤すべく、何気なく熱い紅茶をすすった。
「うまっ!」
 ……さっきと全く同じ反応が出てしまった。リアクションの幅が薄い。
「美味しいでしょう? 優しくも濃い香りが押し寄せてくる感じがしませんか?」
「……まさにそんな感じだ」
 僕はまじまじとカップの中を見つめた。名の通り紅色をしたそれは、相変わらず湯気とともに幸せな香りを放っている。
  
 もう一度口にした。
  
 ふわっ。
  
 ……すごいと思うのは、渋みを感じないことだ。僕は別に紅茶に詳しくはないので上手いこと言えないが、とにかく、今まで味わったなかでは一番美味しい。
「聞いた話なんですけど、ここのマスター、インドにいたみたいですよ」
「インド?」
「紅茶の茶葉って、インドが原産みたいです」
「そうなの?」
 紅茶と言えばイギリスって感じがするけどな。インドなのか。
「常連さんらしい人とマスターが話してるのを聞いたことがあります。茶葉は新鮮であるほど美味しいから、インドで飲む紅茶はもっと美味しいんだって」
「これ以上に?」
「多分、これ以上に」
 マジかよ、すげぇ。
  
 インドにちょっと興味が湧いてきた僕だった。
「――今日はありがとう、月野さん」
 サンドイッチと紅茶を堪能した僕たちは、喫茶店を後にした。わりと早々と。理由はひとつ。会話がもたなかった。自分のトークスキルのなさが恨まれる。
  
 月野さんも口数が多いほうではないから、すぐだんまりになっちゃうんだよな、お互い。
「い、いえ、こちらこそありがとうございました! 無理に付き合っちゃってごめんなさい」
「いやいや。こども図書館なんて行ったの初めてだったし、こんな素敵な店も知れたからね。それは月野さんのおかげだから。楽しかったです」
「楽しかった……ですか?」
「うん、僕は」
「……った」
「え?」
「い、いえ! あの、私も、楽しかったです、とっても。とっても……幸せでしたから」
「し、幸せか……」
 その言葉の含む大きな何かに、僕は少し、照れてしまった。何だか僕という人間がとても大きい何かになれたようで、嬉しくも、恥ずかしく、何と答えていいか分からない。
  
 どう応えて良いかも、分からなかった。
 
 その後、駅までの道中は、何となくぎこちない空気が流れて、僕たちに会話はなかった。無言に耐えかねて月野さんのほうに目をやると、目が合ってしまって、逸らして、黙る。そんな気恥ずかしいことを繰り返してしまって、何というか、自分の未熟さみたいなものを無駄に客観視してしまったりしていた。
  
 再び口を開いたのは、別れ際の、最後だけ。彼女のほうからだった。
  
 電車が到着し、停車するまでの、わずかな時間に彼女は言った。
「あの……」
「ん?」
「良かったらまたこうして、会ってください」
 そうしてそのまま到着した電車に乗り込んで、ドアが閉まった。
  
 僕は答える相手が行ってしまったホームを眺めながら、言葉を口に出せない代わりに、
「うーむ」
 唸りながら、頭をかいた。
  
 何とも、恥ずかしいものだな。
(#16へ続く)
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