ひそひそ、ひそひそと。誰かの囁く声がする。
朧気な言葉たちは明確なかたちを示さないまま、それでも私に向かってきている気がした。
私は固く目を瞑り、頭を抱えるようにして耳を塞ぐと、その場にしゃがみ込んだ。
ひそひそ、ひそひそと。
聞こえ続ける、悪意かもしれないものから、逃れるように。
まぶたの内側に広がる暗闇に、身を沈めた。
――目が覚めると、カーテンの向こう側に、太陽の光でうっすらと明るい空が見えた。時刻を確認すると、五時を回ったところ。無論、朝のわけがなく、午後のである。十七時と言ったほうが妥当か。白んで見える空は始まりを告げる光ではなく、今日も役目を終えたおひさまの残滓だった。
悪夢を見ていた気がする。耳にこびりつく悪意を、ほっと一息ついて追い出した。夢で良かった、と思う。と同時に、この現実世界に安堵できている自分が少しだけ嬉しかった。
気がつけば、この時間に目覚めたというのに、何の罪悪感も感じなくなっている自分がいた。たった一年で何が変わったのかと言えば、多分、全てが変わったのだろう。――あの頃は、毎日毎日、潰れそうな気持ちでいたというのに。全ては、優しくなった世界のおかげだ。
私は、スマホをいくつか操作して、夕ご飯を注文した。引きこもりにはとてもありがたい時代になった。家から一歩も出ることなく、三十分もしないで食べ物が届く。しかも、誰とも話さなくて良い。目を見なくて良い。それでいて、いくらかのチップを上乗せしてやれば、配達員だって満足してくれる。「人に届けてもらった」という罪悪感だって感じなくて済むわけだ。この仕組みを考えた人には頭が上がらない。もちろん本人は、儲ける仕組みとしてこのサービスを立ち上げたのだろうけど。
私には欠陥がある。それは名称がついている欠陥なのかもしれないし、私が弱いだけなのかもしれない。ただ、どんな理由があったにしても、「みんなができること」ができない私が、欠陥品なのは間違いないのだと思う。
私は人と話せなかった。目を見て、顔を見て、会話をすることができない。相手もまた自分を見ていると感じた瞬間に、それこそ、ありがとうの一言すら口に出すことができなかった。まるで、私の発する一言一言が呪いであるかのように、私自身が、私の一言を恐れていた。たった一言であっても、相手にどんな影響を与えるか分からない。とにかく無性に怖かった。
何かを伝えようとするたびに、あのときの、あの子の、あの言葉が、私の心を締め付けた。あの目、あの顔が心をよぎる。それは本当に呪いなのかもしれない。とはいえ、きっとあの子は、そんなことを覚えてもいないだろう。
それでもいい、と思えるようになったのも、やはり、この一年で私の中に積み上がった「優しさ」のおかげなのだと思う。
私が同じことをしないでいられれば、それで良かった。
軽く伸びをした私は、そのままパソコンへと向かった。ディスプレイのスイッチを入れ、スリープから復帰させる。先ほどスマホを見たときから気づいていたが、何件か通知がたまっていた。業務的な連絡もあるものの、半分は他愛のない雑談だ。カタカタとキーボードを揺らす。はじめこそ、何度も何度も下書きしてから送っていたけれど、もはやそんなことはしない。まさかこの私が、誰かとそれだけの関係値を築けるとは思っていなかった。友達とも少し違う、不思議な関係。一般的には、同じ会社の同僚と言って間違いはないのだろうけど、より強い絆みたいなものを感じていた。
メッセージを送った私は、冷蔵庫に向かう。お茶をコップに注いで一口、それから、おもむろに声を出す。
「あー……」
寝起きのかすれた声が虚空に消えた。何度か咳払いをして、お茶を飲み、再び声を出す。なんとなくのどがイガイガした感じがする。お茶を飲む前にうがいをすべきだったか、と後悔した。遅ればせながら洗面所に向かうと、歯磨きをして、うがいをする。鼻がつまっているせいで、清涼感が抜けていかないのが残念だ。
それから私はパソコンの前に戻り、今日の準備を始める。用意してあったメモを見返し、設定を見直し、その他機材全てに問題がないことを確認する。そうこうしているうちに夕ご飯が届いた。さっと食べ、一息つく。食べながら思っていたが、どうやら招かれざる客が部屋に侵入したらしい。なにやら目がかゆく、鼻水が加速していた。のどのイガイガも増した気がするので、完全にスギから出るあいつのせいだ。ご飯を取るために開けた玄関から侵入したのだろうが、あんな一瞬でこんなにもやられるとは。今日はそれだけ量が多かったのかもしれないし、引きこもり期間が長いせいで、より過敏になっているのかもしれない。できることならお風呂に入ってしまいたかったが……時計を見ると、それは難しそうだった。いよいよ、本格的に準備しなければならない。
私は冷蔵庫からペットボトルを取り出すと、戻り際、防音室のドアを閉めた。パソコンとマイクだけになった空間で、先ほどより本格的に声出しをする。顔の筋肉もマッサージして、ルーティーンとなっている舌のストレッチをした後、最後にもう一度鼻をかんだ。
「よし」
一言気合いを入れて、ブラウザを開く。同時に配信ソフトとWebカメラを表示して、私は二次元の体へと着替えを済ます。
配信ソフト側で待機画面にしてから、配信開始ボタンを押した。一、二分経ったら、画面を切り替えて今日の配信を開始だ。
「――へぇっくしょん!」
最後に鼻をかんだのが逆効果だったか、湧き上がるむずむずを抑えきれずに、盛大にくしゃみが出た。待機中で良かった、と思ったのもつかの間、
『くしゃみたすかる』
『くしゃみ助かる』
『たすかる』
『くしゃみたすかる』
『助かる』
一気に加速したコメント欄の変化に、私の羞恥心も加速する。
あわてて待機画面から切り替えた私は、二次元の体を揺らしながら、優しい世界に飛び込むのだった。
「マイク切るのわすれてたー! はずかし~……」
「わたし」の全てを受け入れてくれる、やさしいせかいだ。
———————
本作は、朗読、ラジオドラマにご活用いただけるシナリオとして、「HEARシナリオ部」の活動内で作成いたしました。
ご使用の際は、説明欄等に、以下クレジットをご記入いただけますと幸いです。
また、音声投稿サイト「HEAR;」での投稿時には、タグに「やさしいせかい」もしくは「HEARシナリオ部」と入れていただきますと、作成いただいたコンテンツを見に行くことができるので嬉しく思います。
○クレジット
シナリオ作者:柚坂明都(ふぁいん) https://hear.jp/finevoices
シナリオ引用元:それはまるで大空のような https://fineblogs213.com/a-kinder-world
コメント