どんよりとした空を、男はじっと眺めている。
朝から降り続いている雨は未だやむ気配がなく、どうしようもなく不快感を煽る重くてぬるい空気が、蛇のように男の体へとまとわりついた。ツー……っと、額から頬を伝う雫は、汗か雨水か。どちらとも構わないとばかりに、男は首からさげたタオルでそれを拭った。
昔はコンビニだったであろう空き店舗の屋根の下に、男は立っている。目の前には、田舎特有のだだっぴろい駐車場を持て余すように、相棒たるハイエースが一台、乗り手の帰りを待っていた。男もまた、冷房の効いた車内に戻りたいと切望しつつ、ひとまずは上半身を前後左右に倒して、ゆっくりと腰を伸ばす。スローモーションのようなその様は、あるいは、恐る恐る、と言っても良いかもしれない。何しろ、そろそろ五十が見えてきた男の腰は、何が起きるか分からない爆弾のようなものである。うっかり変な伸ばし方をした日には、その姿勢のまま動けなくなることもあり得た。
「こんな、田舎にゃ、救急車も、来ないし、車も、通らないし、洒落にならん、……っと」
体を伸ばしながら、思わずひとりごちる。もちろん言葉を返す者はなく、虚空に消えゆくばかりだが、そうして何かに抗わなければ、希望のない未来に心を折られるような気がした。
男は、配達先の店主とのやりとりを思い出していた。
「あれ、おばちゃん。また値上げした? 卸値、上がってたっけ。変わってなかったと思ったけど」
寂れた町跡にぽつんと生き残っている個人商店で、男は納品ついでに、品出しを手伝っていた。
店主が高齢なため、二ヶ月に一度の納品日には、こうして手伝いをするのが常だった。二ヶ月も空けば大抵ひとつふたつ変化はあるもので、値札の変化もそのひとつだ。
「烏龍茶が一本で六二○円……さすがに東京でも見たことない数字だな。飲食店なら一杯あたりもうちょいするけど……」
「佐藤さんの会社は悪くないの。電気とガスがまた、ね」
男のつぶやきに、店主は背後から答えた。男が振り向くと両手にお盆を持っており、コップの中には噂の烏龍茶が注がれている。
「あー、原因そっちか……」
男は納得の理由に苦笑いを浮かべながら、お礼を言って、ありがたく高級ドリンクを受け取った。キンキンに冷やされていることもあって美味しかったが、それでもやっぱりペットボトル一本で六二○円は高いな、と思った。田舎で営業することの大変さを痛感する。そもそもこのあたりは、目に見えて限界が来ていた。
「お客さんが増えたりは……しないもんな。なんだっけ、六人だっけ、この辺に住んでる人」
「今は五人になっちゃったの。山本さんが腰をやっちゃって、ついに息子さんが迎えに来てね」
「え、同居ってこと? そっか……まあ、良かったのかな。迎えに来てくれる家族がいるだけマシというか。もちろん、お店的にはつらいけど」
「そうだねぇ。残った五人はもう、みーんな独り身だってこの前話してたから」
「そっか……まあ、今時大抵そうだよね」
男は、都内に住む自分の知り合いたちを思い出して頷いた。
「衰退の五十年」――そう呼ばれる現代日本において、結婚、出産という選択肢をとる人間は多くない。
こんな世界で大変な思いをするのは自分達まででいい――漠然と、誰もがそう思っていた。もちろん男も独り身である。
「まさかこうなるとはねぇ……私が引っ越してきた頃は、この辺も賑やかだったんだけど」
店主はふう、と息をついた。それは、日本中で見慣れたため息だった。男はふと興味をそそられて尋ねてみる。
「そういや、おばちゃんがいつから店をやってるのかとか、なんでなのかとか、聞いたことなかったね」
すると店主は、やや自嘲するように言った。
「流れ流れてだったのよ」
私がここに引っ越してきたのは、二十八のとき。
佐藤さんもご両親から聞いたことがあるかもしれないけれど、当時、世界中で感染症が流行してね。そのせいで規制が厳しくなって、海外に出張していた夫が、しばらく帰国できないことになったの。だから、特別措置として夫は、落ち着くまで海外拠点勤務ということになってね。残された私は、娘が小さかったこともあって、実家の両親を頼ることにした。その実家が、このお店。
両親は私が生まれた頃から、この場所で、個人商店をやっていてね。そこに転がり込んで、私も店を手伝いながら、反対に、両親には子育てを手伝ってもらって、何とか生活していた。幸い、夫から生活費は振り込まれていたから、お金の心配だけはしなくて良かったし、とにかく毎日に追われているうちに、気付けばそんな生活が、大体、一年くらい続いた。
その頃には、ようやくワクチンも行き渡って、徐々に世界が落ち着いてきてね。それに合わせるように規制も緩和され始めて、ようやく私は、夫との生活に戻れると思った。ちょうど、娘もそろそろ幼稚園の頃合いだったから、元の家に戻って、そこで生活しようと思っていたのね。……でもそこで、異変が起きた。
もう帰れるはずなのに、夫が一向に帰ってこなかったの。電話をしても、なんだかんだと理由をつけて、結局会えないまま、いつしかもう一年が経った。……そうなると、さすがにうっすら気がつくのよ。
浮気されたんだって。
結局、私は夫と別れることになった。都内で借りたままにしていた家は引き払い、私はそのまま実家での生活を続けることになったの。幸いにも、その頃はお店の調子が良くてね。……佐藤さん、地方移住ブームって知ってる? 感染症の拡大で、リモートで働く人が多くなって、田舎でゆったり生活しながら仕事をしようって、考える人が増えてね。国も、地方自治体もそれに乗っかって補助金なんかを出したから、このあたりにもわっと人が増えるタイミングがあったのよ。
信じられないでしょ? まさか地方がこうなるなんて、誰も思ってなかったのよねぇ。
もちろん、人が増えているうちは順調だった。でも、ブームなんて一過性でしょ。それに、知ってのとおりそこからは、いよいよ人口が減り始める。日本全体でね。そうなれば……
「……ここからは、佐藤さんには釈迦に説法よねぇ」
「……人の減少は、すなわち客の減少。地域で利益を確保できなくなった企業は次々に撤退するか、それができなきゃ値上げする。その影響でさらに人が減る、か。まさに今だなあ」
「そうねぇ……だから、分かってはいるのよ。値上げされた電気もガスも、そうせざるを得ないってことは」
「まあ本音を言えば、撤退したいだろうからなあ。ただでさえ人手が足りないのに、数人のためにインフラを維持するのは大変だから……」
「そう、本当に、そういうことなのよね……。佐藤さんも、本当は嫌でしょう。こんな田舎に、この店のためだけに来るの」
「……どうだろ。確かに遠いなとは思うけど、でも、うん。個人的には、別に嫌ではないかな。こうやってしゃべってても給料もらえるし、それに……高級ドリンクも飲めるし。ははっ」
「あらあら。じゃあ、高級ドリンク、おかわり持ってくるわね」
店主はそう言うと、店の奥に消えた。男は手元のペットボトルを見ながら、じっと考える。そして、戻ってきた店主に聞いた。
「おばちゃんは、嫌じゃないの?」
どんよりとした空を、再び男は眺めた。
それから、視線を後ろの店舗に向ける。
身ぐるみを剥がされた豆腐型の店舗は、雨に濡れ、埃をその身にまとっていた。その汚れた白い壁にはうっすらと店のロゴが浮かび、それはどこか、過去の賑やかさの名残のようだった。
埃や花粉で黄色くなった窓に、男の姿がぼんやりと反射する。よく見るとその窓には、「テナント募集中」の文字が掲げられていた。
消えかかったこの文字が全てだ、と男は思う。
この文字が象徴するように、この店はこのまま、忘れ去られていくのだろう。生まれ変われることは、きっともうないはずだ。かといって費用を考えれば、壊されることもきっとない。この店は、進むことも、消えゆくこともできないことが、男には分かった。
だからこそ男は、ならば、と思う。
お決まりの休憩場所が、このコンビニ跡となった。
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本作は、朗読、ラジオドラマにご活用いただけるシナリオとして、「HEARシナリオ部」の活動内で作成いたしました。
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シナリオ作者:柚坂明都(ふぁいん) https://hear.jp/finevoices
シナリオ引用元:それはまるで大空のような https://fineblogs213.com/hope
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