ローマ帝国兵の嘆き

 ああ、嘆かわしいことだ。

 この日本という国に、学生の体で転生して数年。毎年、今日、この日になると、憤りを抑えるのに苦労することになる。

 二月十四日。この日は、偉大なる聖バレンティノ司祭が殉教なされた日だ。だというのに、この国の民はそんなことすら忘れて浮かれている。

 いや、知識としては知っている者もいるのかもしれないが、そのうち、どれだけのものが、かの司祭の死に想いを馳せているというのか。

 少なくとも私は、そんな者を未だ見たことがない。

 ああ、嘆かわしいことだ。

 かの偉大な司祭は、王の命令をものともせず、民のことを想い、愛を誓う場を提供してくれた。だから、せめて、真実の愛を結ぶ習慣として、司祭の名を冠するのであれば許容してもよい。

 だが、どうだろう。見渡せば、「義理チョコ」などといって、形式的にチョコレートを配り合うばかり。そこに感謝があるのかといえば怪しいものだ。

 そうでなければ「友チョコ」だ。女同士でチョコを送りあってはしゃぐだけ。楽しむこと自体は否定しないが、そこに、かの司祭の名を使わないでほしい。

 かの司祭は本当に偉大だった。当時、我々ローマの兵は、「婚姻を結ぶと戦いに臨みたがらなくなる」との理由で、王から、愛する者との結婚を禁止された。そんな我々を哀れみ、救ってくださったのが聖バレンティノ司祭だ。

 王の命令は絶対。そこに背くということは、命の危機ということだ。それでもなお、我々を想い、司祭は結婚式を続けてくれた。事実、私と妻との婚姻も、かの司祭がいたからこそ成ったのだ。そんな功績を忘れてはしゃぐことなど、許せるだろうか。

 ああ、嘆かわしいことだ。

 どれだけ彼に感謝し、悼んでも、何もできない私自身が嘆かわしい。

 この世界の書物によれば、転生者は特殊な能力を得ることができるという。ならば、私に、このバレンタインデーなどという風習を正す力を与えてほしいものだ。

 その力さえあれば、かの偉大な司祭の想いを継ぎ、この風習を、正しき姿に変えてみせる。

 そうだな……「バレンタインデー」という習慣に基づいて、チョコレートを二月十四日に渡すと、必ず結ばれるようにしてしまうのはどうだろう。義理チョコ、友チョコと、無駄にチョコレートを配り合う女どもは困り果てるに違いない。

 だが、かの司祭の名を用いてチョコレートを贈るのだ。必ず結ばれるくらいの奇蹟は起こってよいはずだ。最初は混乱するだろうが、いずれ、あるべき姿になっていくだろう。真実の愛だけが結ばれていく世界に。

 おお、これはなんということか。

 そんなことを考えていたら、どうやら私は、この世界をひとつだけ改変する能力を得たらしい。もしかするとこれも、天から聖バレンティノ司祭が私にもたらした奇蹟かもしれぬ。

 この能力があれば、私はなんでもできるが、私利私欲のために使うつもりは毛頭ない。かの司祭への感謝を現実にするときがきたのだ。

 ……ふう。これで世界は変わったはずだ。ああ、感謝します神よ。これで私は、ただ与えてくれるばかりだった司祭に、少し恩が返せた気がする。

 さて、そうなれば、少し私も外に出て、様子を見てくるとしよう。当初は混乱に陥るだろうが、それを見届けるのもまた、世界を変えた者の使命だろう。

 私はアパートメントの玄関を開けた。すると、外側のドアノブに、袋がぶら下げてあることに気がついた。

 今日はずっと家にいたのだが、誰かが来たのだろうか。ああ、そういえば、能力を使っている間は集中していたので、物音に気づかなかったとしても不思議ではない。

 袋をそのままにはしておけないので、一旦、室内に戻ることにする。

 知り合いがこれをぶら下げたのであれば、何か連絡が来ているかもしれないな……。

 そう思ってスマートフォンを確認すると、連絡が一件入っていた。

『いなかったみたいだから玄関にぶら下げておいたが、バレンタインってことで、趣味で作ったチョコレートケーキ、食べてみてくれ。最近は男同士でも、強敵と書いて「とも」と読む、強敵(とも)チョコなんてのがあるらしいからな。まあ、お世話になっている礼ってことで!』

 なるほど、隣に住むあいつからだったか。あいつは、転生して何も分からない私に、色々と世話を焼いてくれた気のいい奴だ。礼というなら私のほうこそ言わねばならないが、しかしあいつ、お菓子作りが趣味だったのか。かわいいところがある。そう、とてもかわいい奴だ……。

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本作は、朗読、ラジオドラマにご活用いただけるシナリオとして、「HEARシナリオ部」の活動内で作成いたしました。

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○クレジット

シナリオ作者:柚坂明都(ふぁいん) https://hear.jp/finevoices

シナリオ引用元:それはまるで大空のような https://fineblogs213.com/lamentation-of-roman-soldiers/

コメント

  1. […] 『ローマ帝国兵の嘆き』(作:柚坂明都) […]

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