卒業

 

 最後の日だから、と担任に頼んだら、思っていたよりもすんなりと許可が下りた。

 おかげで僕はこうして、風通しの良くなった校舎の中を、ひとり、歩くことができている。

 人の行き交う玄関も、その先に見える校庭も、誰もいないというだけでいつもと違って見えた。三年間、僕の上履きと靴を受け入れ、耐えてくれていた下駄箱は、すっかりボロボロだった。こいつはもう何年、この仕事をしているのだろうか。知らないが、おそらく特に大変な三年間だったのではないかと思う。

 おつかれさま。そしてありがとう。

 そっとなでてやったら、こいつの歴史が手のひらに伝わってきた。でこぼこしている。ざらざらしている。このざらざらは、この部屋に住んでいる砂の感触か。

 僕は、何度か手をこすりあわせて、誘拐してきてしまった小さな住人たちをタイルの上に払い落とした。

 すまんね、諸君。でもきっと君たちには、そこも居心地は悪くないと思うよ。

 僕はきびすを返す。今日まで文句も言わずに靴を受け入れ続けてきた相棒に、次はもっといいパートナーができるといい。

 そんなことを願いながら、オレンジ色の光を背に、校舎内へと戻った。

 階段をのぼる。二階には、今日まで一年間を過ごした教室がある。滅多に来ることがなかった他のクラスにだって、入り放題だ。今だけは僕がこの学校の支配者だった。

 黒板には、使えるだけの色を全部使って、落書きやメッセージが残されていた。

 これはいつ消されるんだろう。誰が消すんだろう。どんな思いで消すんだろう。

 消えたらなくなるのか。人の心には残るのか。どちらにしても、あの落書きは素敵だから、素敵な気持ちになれると思う。そして、素敵な気持ちになれるから、素敵な落書きなのだ。

 他の教室も覗いてみたが、三年の教室には、いずれもそんな素敵な落書きがあった。もちろん、最後に入った僕の教室にもあった。

 座席のほうに視線をやれば、自然と自分の席、自分の机へと目がいった。あそここそ、この教室における、自分の居場所。

 行儀は良くないけれど、試しに天板へと座ってみたら少し揺れた。下駄箱と同じように、なでれば勲章の感覚がある。君もありがとう。

 僕はしばらく、そこで揺れながら過ごした。全く心地良い揺れではなかったが、それもまた僕の机らしい気がした。

 途中で窓も開けてみた。風が、身を固くさせるだけの冷たさをはらみはじめている。気づけば、オレンジ色の光が山に吸い込まれつつあった。それとも、主役交代と張り切る夜に、無理矢理押し込まれているのだろうか。

 なんにせよ、少し、ぼーっとしすぎたらしい。

 僕はひとつずつ階を上がって、かつての教室を覗いてみた。ひとつフロアを上がるごとに、学年はひとつ下がる。一年坊主は上までのぼれという教室の配置。若手ほど苦労する社会の縮図。

 

 覗いた教室に、僕の居場所はなかった。

 

 最後の階段を塞いでいるチェーンをくぐり、のぼってドアノブをひねれば、今日のメイン会場だ。鍵の壊れた屋上へのドアは、これもすんなりと開いてくれた。普段は悪ガキどもだけがくぐってきたドアだが、ついに入ることができる。

 卒業生という立場を利用してまで、人がいなくなるのを待たせてもらったのは、ここに来るためだった。

 先ほど教室で迎え入れた風が、今度は僕を出迎えてくれた。寒さに身を抱える。ここまで、僕と共に荒波に耐えてきた制服よ、もう少しだけ、頼む。

 

 初めて入った屋上は、素敵じゃない落書きで溢れていた。金網もボロボロで穴だらけになっている。ここに入れることを大人たちが知らないのをいいことに、どうやら好き勝手したらしい。想像通りの単細胞だ。どこでも同じことしかできないらしい。

 近づいて、金網に触れた。お前も、僕の下駄箱や机と同じだな。僕の下駄箱や、机や、

 

 僕と同じだな。

 

 ……ああ、制服、お前も仲間か。

 

 三年間よく頑張った。僕たちは負けなかった。負けずに、今、こうして卒業の時を迎えられた。最後まで逃げずにやってこれた。

 連れて行けるのが制服だけなのは申し訳ないけど、ようやく、卒業できる。

 僕は穴のあいた金網をくぐった。

 

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本作は、音声投稿サイト「HEAR」での朗読、ラジオドラマにご活用いただけるシナリオとして、「HEARシナリオ部」の活動内で作成いたしました。

HEARでの使用に限り、断りなく使用することができます。

その際、説明欄等に、以下クレジットをご記入いただけますと幸いです。

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○クレジット

シナリオ作者:柚坂明都(ふぁいん) https://hear.jp/finevoices

シナリオ引用元:それはまるで大空のような https://fineblogs213.com/graduation/

 

コメント

  1. […] 『卒業』(作:柚坂明都) […]

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