ローマ帝国兵の悩み

 アパートメントの扉を開けると、どんよりとした灰色の雲が目に入った。今にもひと雨きそうな空模様。だが、その程度のことで、私の足が止まることはなかった。

 袋に入った愛刀を左手に、すっかり慣れきった道を歩きだす。きっちりと舗装された道路、そして、そこを高速で鉄の車が走るこの光景にも、もはや驚きはない。この時代に転生した当初は、偉大なるローマ帝国を遙かに超える技術力に、言い様もない悔しさも覚えたものだが、そんな思いもとうに薄れた。

 だが、変わらぬものもある。この私の魂だ。

 転生して数年。平和なこの時代、この国に、ローマ帝国兵たる私が呼ばれた理由は未だ分からない。文化も常識も違うこの時代で、苦労することは多く、理解はできても受け入れられないこともある。例えば人々は、平和を疑わず、はっきり言って軟弱極まりない。当然ながら、そんな時流にのまれ、自らも堕落するような私ではなかった。

 私はこの時代でも、私であり続ける。……あり続ける必要がある。そのために、今日もこの道を歩くのだ。

「師範、おはようございます。本日もよろしくお願いいたします」

 とある住家じゅうかの門を開け、一礼して挨拶をする。すでにその人は軒先で待ってくれていた。

「来たか」

 白髪はくはつが入りまじった頭を、短く刈り上げたこのお方こそ、今世における我が師たる人だ。私はこの時代、学び舎にて、「剣道」という武術を学んでいる。

 剣の道とは、なんと素晴らしい名を冠した武術だろうか。前世でも剣を振るっていた私だが、剣は剣でも片手剣。盾を持つことを前提とした戦闘しかしたことがなく、ゆえに、今世でこの武術に出会ったときには、血の滾る思いがしたものだ。

 この時代において鍛錬が必要かどうかは分からない。どれだけこの身を鍛えようとも、前世のように、国のため、人々のために生死を賭けるような機会は、おそらくないだろう。では不要か? ……否、この身を鍛えることこそ、栄えあるローマ帝国兵たる我が誇り。決して失うわけにはいかなかった。

「では、はじめろ」

 時刻は朝六時。我が師は、静かに告げて腕を組む。私も口数が多いほうではないが、師は、なおのこと寡黙な人だ。普段から、修練を見る目も厳しく、それゆえ、同じ部に属する同輩の中には、師の陰口を叩く者もいる。が、私にはその厳しさが心地良かった。

 思えば、帝国の上官もこんな人柄だった。前世で私が新兵だった頃は、今の同輩と同じように、陰でこっそりと文句を言うこともあったが、おかげで強くなれたという経験もある。それは武力の面でも、精神の面でもそうだ。……そう、もしも武力が不要と言うのならば、せめて私は、この心を磨く道を歩む。

 収納袋から愛刀を取り出し、構えをとる。竹製の刀ではあるが、私の相棒であることに違いはない。姿勢を正し、腕を振り上げ、右足を前へ。踏み込みと同時に振り下ろす。

 声は出さない。平時であれば、同輩の友と肩を並べ、全力で声を出すところであるが、今日は休日。師に頼み込み、こうして住家じゅうかにて教えを請うているに過ぎず、周りの家々には、まだ眠りにつく者も多いだろう。ゆえに、この時間は、声の分まで力を込めた。あと数時間もすれば、声も出せるようになるだろう。

 踏み込み、身を引き、また踏み込む。まずは基本となる中段の構えで、繰り返し刀を振り下ろす。その間、師は何も言うことはない。ただじっと、その目で私の姿を見つめるのみだ。だがそれで、私の心は張り詰める。そのまま研ぎ澄ますように刀を振り続けていると、調子が良ければ、師の視線を忘れ、刀と一体になることができる。

 ――だが、どうやら今日は不調らしい。

「やめ」

 しばらく振り続けていると、師の声が私の体を止めた。私は腕を降ろし、刀を左手に納め、一礼する。師の視線に頭を上げられずにいると、短くも重い叱責が下った。

「剣先がぶれている。ただ振っても意味がない。少し休め」

「……はい」

 師は私の返答を聞くと、家の中に戻っていった。残された私は小さく息をつく。

「ぶれている、か……」

 軒先の縁側に腰掛け、左手に納めた刀の柄を眺めた。そういえば、帝国の上官からも同じ指摘をもらったことがあった。あれもまた、新兵の頃。初の出兵を数日後に控える頃合いだったか。初めての実戦、命の奪い合いを間近に控えたあのときも、上官の言葉に重みを感じたものだ。この重さは、芯を突かれているということなのだろう。

 前世も含めれば、数十年は戦士としてやってきた私だが、そんな今、若かりし頃と同じ指摘を受けるとは。

 あの頃とは境遇が大きく異なる。だが、異なるからこそ、ということか。

 目線を上げると、変わらず、厚い雲が空を覆っていた。いよいよ降り出すかもしれない。

 この身を濡らし、重くする雨が。

「ん?」

 ふと、背後に気配を感じて振り返ると、小さな娘が私に近づいてきていた。確か、師範の孫だったか。

 いつだったか、夕方の教練をさせていただいたとき、一度だけ目にしたことがある。垣間見ただけだが、強く印象に残っているのは、あの師範が笑顔だったからだろうか。師も、孫には弱いということかもしれない。

 そんな娘が、とてとてと私に近づいてくる。じっと、まっすぐに私を見つめる瞳は、どこか師範の面影もある。どう声をかけたものかと思考を巡らせていると、その右手に握った何かを、そっと私に差し出した。

 これは……白い玉? いや、見ようによっては人形にも見える。人形だとすれば、さながら、白い布を頭から被ったかのような、珍妙な姿だ。

「これは? 私にくれるのか?」

 声をかけてみると、娘はそれを私に押しつけるように手渡した。そのまま、脱兎のごとく走り去っていく。

 怖がらせてしまっただろうか。一応現世では、昔ほどの威圧感はないと思うのだが……いや、ないと思うの、だがな……。

「どうした」

 そんな私のもとに、師範が戻ってきた。私は手の中の人形を見せつつ、事情を説明する。

「お孫さんがこれを。しかし、これが何かと聞いてみたら、怖がらせてしまったのか、走り去ってしまって……申し訳ありません」

 それを見た師範は、珍しく、少し弛緩した表情を浮かべる。そして、

「雨を晴らすお守りのようなものだ。この天気を見たからかもしれんな。……再開しよう」

 心なしかいつもよりも明るい雰囲気で告げると、どこか上機嫌に教練の再開を促した。

 あまりの珍しさに、一瞬あっけにとられる。我に返って素早く立ち上がりながら、私はつい、呟いた。

「……お守りか。あの幼子が」

 脳裏に前世の記憶がよぎる。

「いつの時代も、変わらぬものは変わらず、変える必要もないということか」

 私は今一度空を見た。一瞬そこに、護符を差し出す我が娘の姿が重なった。戦場へと赴く私に向けてくれた、幼く、愛すべき笑顔を思い出す。

 天気は変わらず悪かった。だが、分厚い雲の奥に、少しだけ光が差し始めている気がした。

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本作は、朗読、ラジオドラマにご活用いただけるシナリオとして、「HEARシナリオ部」の活動内で作成いたしました。

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○クレジット

シナリオ作者:柚坂明都(ふぁいん) https://hear.jp/finevoices

シナリオ引用元:それはまるで大空のような https://fineblogs213.com/trouble-of-roman-soldiers/

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