命の水溜まり

 まあそうだろうな、と思っていた。

 仕事が、急用が、体調が、なんて、不運に不運が重なって、デートが毎回キャンセルになって。……そんな偶然あるわけないと、どこかで分かっていた。

 段々短くなる謝罪文に、明るく返す私。見え隠れする本心に気づかないふりをして、こぼれていく何かを繋ぎ止めるために、言葉と絵文字を消費した。文字数の差は、やりとりの度に広がり、だんだん彼の言葉からは、建前すらなくなっていく。

『悪い、今起きた。疲れててさ』

 ……なんて、一方的に言われるようになっても。

 二時間待ったのを怒ることすらできない、臆病な人間が、私だった。

 ――だから、なのだろう。

 彼から急に呼び出された私は、仕事帰りに急いで家に帰ることを選んだ。わざわざ服を着替えて、化粧を直した。お風呂には入れなかったけど、玄関の姿見で、念入りにチェックもした。……呼び出された理由なんて、分かっていたはずなのに。

 最後は、彼の家の最寄り駅。

 その改札前だった。

 ――そうして私は今、再び電車に揺られている。

 家に帰る気は起きなかった。明日も仕事だ、なんて告げる、大人な私もいたけれど。そんな私を感情が振り切った。……それはそれで、自己嫌悪にとらわれることを初めて知った。

 いい大人が、なにやってんだか。

 自分のわがままに自分で落ち込む厄介な私を、世界一の正確さを誇る列車は、時間どおりに運んでいく。何度も利用した路線だけれど、この電車がどこに着くのかは知らなかった。この路線は、私にとって、彼に会うためだけの路線だったのだから。

「せっかくなら、ひとりで海でも見たかったのに」

 たどり着いたのは、良くも悪くも普通の駅だった。駅前にはコンビニがあって、駐輪場があって、バスロータリーがあって。それ以外めぼしい物もなければ、利用者の数もまばら。街灯の数も少なく、どこか薄暗かった。

 ……でも、空を見上げて星が見えるほど暗くはない、か。

「ふっ」

 思わず、笑いがこみ上げてきた。現実なんてこんなもん。傷心旅行を始めたつもりで、その実態は、うっかり電車を乗り過ごした乗客とそう変わらない。見知らぬ駅で、することもないまま佇むだけだ。

 そう考えると、何だか途端にばかばかしくなってきた。悲しいのに、笑えてきた。笑えてきて、みじめだった。

 立ち尽くす私を追い越して、おじさんが夜に溶けていった。おじさんの目には、ぼさっとしている怪しい女に映っただろうか。……いや、きっと気にも留めていなかったことだろう。さっさと帰って、さっさと寝たい。仕事帰りのサラリーマンなんて、そんなもん。

 そんなおじさんに、見向きもされないのが今の私。

 少し視線をそらすと、バスロータリーに制服を着た女子高生の姿があった。塾帰りか何かかもしれない。今も、参考書らしきものを広げて、じっと知識を蓄えているようだった。

 頑張ってるなあ。頑張ってる。そんな青春の化身には、十年後に、こんな風にならない生き方をしてほしい。

 私はあてもなく歩き出した。駅前には、海も星も、孤独もなかった。あったのはただの日常。悲劇のヒロインは、ただの通行人Aでしかないのだと分からされた。でも、そうだよな、とも思う。誰もが日常を生きていて、私のこの気持ちも、そのうちそこに溶けていく。きっとそうなるんだと思った。だから、もう少しこの場所で、日常を探して帰ろう。それがいい。

 ふらふらと、見知らぬ夜の町を歩く。少し先に小さな商店街があって、飲み屋が数軒やっていた。カラオケもある。パチンコもある。でも、逆に言えばそれくらいだった。本当にどこまでも、普通の町。

 ――普通の町だったのだ。ここまでは。

「……え?」

 短い商店街が終わりを迎える頃、俯いて歩く私の背中を押すように、強い風が前へと通り抜けた。思わず視線を足下から正面へと向けると、商店街の出口、交差する道路の先に、唐突に広大な暗闇が待ち受けていた。潮の香りも漂ってくる。

 思わずスマホを取り出し、地図を開いた。現在地を見ると、……間違いない。目の前には、海が広がっていた。

 そういえば理科の時間に教わったことがある。風は、気圧の高いほうから低いほうに吹く。夜の海は温度が陸よりも下がりやすいから、気圧も下がるのでうんぬん。細かい理屈は忘れたけれど、とにかく夜は、風が海に向かって吹くのだ。匂いが伝わってこなかったのは風向きのせい? いや、この際そんなのはどうでもいい!

 道路を渡って、海との境界、柵のところまで小走りで向かった。海風が、相変わらず後ろから吹いている。無駄になったお気に入りのスカートがたなびいた。

 そこは断崖絶壁。眼下には、海がどこまでも広がっている。対岸は見えないし、海の上には灯りも作りようがないので、本当に真っ暗だ。

 でも、おかげで星が見えた。

「そして私はひとりぼっち。……そっか、全部、ここにあったか」

 目を閉じると、さざ波の音が聞こえてきて、私の心をなでた。そういえば、彼とのデートで海に行ったこともあったっけ。こんな寂れた駅じゃなく、ビルの光と、観覧車のネオンがおしゃれな夜の海。

 買い物をして、ご飯を食べた帰り道。見つけたベンチに座りたいってお願いして、彼も快く承諾してくれた。それからしばらく、彼の胸に体をあずけて、ばかみたいにくっついてたっけ……。海風の肌寒さと、彼の体温を覚えている。

 ――今はもう、私の手に、その温もりはないけれど。

 ひとりの海は、それでも、私の涙を優しく受け止めてくれた。

 帰りの電車に揺られながら、私はぼんやり、また理科の授業を思い出していた。

 海というのは、何億年も昔の地球で、たくさん降った雨が溜まったものだという。そこに、色々な物質が溶け込んで、変化して、やがて命になった。

 言わば海は、命の水溜まり。

 ……私が今日流した雨も、そんな水溜まりに溶け込んだなら。

 巡り巡って、いつか、何かに変わってくれるのだろうか。

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本作は、朗読、ラジオドラマにご活用いただけるシナリオとして、「HEARシナリオ部」の活動内で作成いたしました。

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○クレジット

シナリオ作者:柚坂明都(ふぁいん) https://hear.jp/finevoices

シナリオ引用元:それはまるで大空のような https://fineblogs213.com/puddle-of-life

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