――少しして、月野さんとは逆方面へと向かう電車がホームに到着した。乗り込んでから、ポケットの震えに気が付いて携帯を取り出す。
『今日は本当にありがとうございました。楽しかったです。……もし良ければ、次回、楽しみにしてますから』
月野さんだった。別れ際に挨拶をしたというのに、律義にメールまでくれるなんて。
短い文ながら、可愛らしくも、プレッシャーを感じる。電車に揺られながら僕は、女の子と楽しめそうな場所を考えた。
月野さんの性格からして、にぎやかなところは苦手だろうか。
月野さんの好きなものはなんなのか。動物とか好きかな? 映画はどうだろう? 絵本が好きなら、絵そのものにも興味がありそうなイメージだが……。
そしてはたと気付く。
自分が月野さんのことをほとんど知らないということに。今知っているのは、絵本が好きということだけ。
そしてそれは、月野さんだって同じはずだ。僕もまた、自分のことをほとんど教えていない気がする。それでも好かれているらしいのは、僕が彼女を助けたという、その事実があるからで。
……何かこう、勇敢な人間、みたいなイメージ持たれてそうだよなあ。
でも残念ながら僕は、自分が勇敢だと思ったことなど一度もないよ。少なくとも、勇気はないほうの人間だと思う。
だって、
「――そういや」
……思考が不意に、何かに当たったように転換した。思い出した、と言っていいと思う。
そう、そういえばあの時。
『――私は、あるんだ。やりたいこと』
卒業までにしたいことがある。そう語った兎束さんは。
『……あのね、秋本君』
一体何を言いかけたのだろう。
「ただいまー」
何とも整理のつかない頭のまま、僕は家へと帰ってきた。考えれば疑問が解けるという類の問題ではないので、もはやどうしようもない。ただ唯一、月野さんに関してだけは思いついたことがあって、先ほど実行に移している。
リビングへと入ると、母さんが読書をしていた。時刻はおやつが近いといったところ。洗濯物は朝干したし、掃除もしたし、昼食の後片付けも終えたし、夕食の準備には早いし、という時間。主婦の大事な自由時間か。表紙から察するに読んでいるのは男同士の恋愛小説だが、それもまた自由。何も言うまい。
「お帰り、ハル。新刊あった?」
「うん、買ってきた」
買ってもらった、とは言わない。
「そう、良かったわね。あとでお母さんも読まなきゃ。いつものところに入れておいてね」
いつものところ。
それは、地下室のことである。
我が家の人間は、趣味の差はあれど、ライトノベルや漫画が好きだという点では共通している。そのため、誰が買おうと本は家族のものとして共有するのがうちの常識なのだった。だが、各部屋にそれぞれが置いておくのでは、個人空間の保守という観点から、いちいち入室に本人の許可が必要だったりしてしまい面倒である。そこで一か所に集めたのだ。
今や我が家の地下は半ば図書館と化している。全ての本はそこの本棚に入れるのが、いつの間にか当たり前となっていて、本を買って読んだら入れるのだ。昔は二階の一室を使っていたのだが、どんどん本が増えていくので一度、重さでその部屋の床が抜けるのではないかという事態が発生してしまい、父さんが思い切って地下室を増築したのであった。
結構自慢の部屋なのだが、一方で、他人には見せられない空間でもある。一言で言うならあの地下室は、「混沌」だから。
一面を見れば父さんの趣味が全開で、女の子と女の子が頬を赤らめてきゃっきゃうふふしている。
違う面を見れば母さんの嗜好丸出しで、打って変わって男ばかりだ。
僕としては何とも居づらいのが那都葉のゾーンで、一見男女の恋愛もののように見えるが、ずらりと並ぶ背表紙をよく見ると、「兄」とか「妹」とかいう文字が羅列していて、ある意味で最も感心する。よくもまあここまで偏った本を収集できるものだ。ただし、「調教」とか「鬼畜」とか、平和的でない文字も見受けられる点はいただけない。僕は、あいつが「兄」というものに対して何を求めているのかだけは、深く考えないようにしている。
結局僕の部分が一番普通なのだった。僕にはそうした偏りは、少なくとも父さんや母さんや妹のような極端な偏りはないはずだ。もちろん好きなジャンルはある。が、幅は広いね。
「おう、読み終わったら入れとく」
僕は冷蔵庫から取り出したお茶を飲みながら、母さんに返事をした。
さて。
喉も潤ったことだし、早速読み始めますかね。
使ったコップを下げて、僕は新刊片手にリビングを出ようとした。
「あ、ハル」
が、母さんに呼び止められて振り向く。
「ナツのこと、かまってあげなさいよ。何だか様子が変だったから」
「変? 那都葉が?」
いやまあ、あいつはいつも変といえば変だが、母さんがわざわざ言うのだ、いつもより変なのかもしれない。
おいていったから拗ねてるのか?
「とりあえず様子は見てみるよ」
「お願いね」
「おう」
やれやれ。まあ、本を読み始める前に声をかけてやろう。あいつも少しは兄離れしてくれると良いんだけどな。
息をひとつ吐いて、僕は階段を上がっていった。
――二階へと上がっていく息子の姿を眺めながら、リビングに残った秋本真冬はぽつりと呟いた。
「何かあったのは間違いないのよねぇ。あのナツが、ハルのこと追いかけるって行って出て行ったあと、そんなに経たずに一
人で帰ってきたんだから。……大したことなければ良いんだけど」
人で帰ってきたんだから。……大したことなければ良いんだけど」
娘を心配する母の憂いは、しかし、遥には届かなかった。
(#17へ続く)
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