錯覚【同人用短編】

 さて、まずはパソコンの話をしよう。皆、パソコンは使うよね。あるいは、他の電子機器でも良い。とにかく何らかのかたちで、毎日のようにデータのやりとりをしているはずだ。少なくとも、この国においては、それなしではもはや生きられなくなっている。
 では、ここで聞こう。データとは何だろう。分かる人は?
 ……うーむ、そうか。一言で言うのは難しいかもしれない。なら、これは知っている? データは、数字の0と1から成るということ。そう、二進数だ。パソコン上で扱うものを小さく小さくしていくと、結局は0と1になる。文字も、画像も、映像も、全部0と1だ。オンとオフ。「なし」と「あり」と言ってもいいかもしれない。それはなぜか。単純な方がやりやすかったからだ。シンプルな方が易しい。この感覚は分かるだろう?
 ではここで、質問をもう一つしたい。データというのは、現実に存在する? どうだろう。どう思う?
 色々な視点があると思う。何を持って「存在している」と断言できるのかというと、それは難しい。例えば、パソコンで絵を描くとき。線を引いたり色を塗ったりする。その線や色は、確かに画面上に「在る」。ゆえに、存在するということもできるはずだ。また、よりもっともらしくいうならば、データが電気の組み合わせであって、電気を蓄積したものであると考えるならば、それには質量がある。質量があるから存在する、とも言える。
 だが一方で、あなたが女の子を描いたとして、その女の子は、その女の子としては、「存在しない」と言える。それは単なる電気の蓄積に過ぎず、決して女の子ではない。あくまで、目に映るだけの虚像である。もしくは、自分の写真を撮ったとして、その写真に写った自分は、「自分」という存在としては、「存在しない」と言えるのではないだろうか。仮にそれを「存在する」と言うならば、人間は増殖が可能だが、どうだろう。
 少しややこしくなってきた? それは奇遇だ。私もよく分からなくなってきたところだ。ゆえに、さきほどの話。「シンプルなほど易しい」に則って、考え方をシンプルにしよう。
 理屈は不要。感覚で構わない。データというのは、存在しているだろうか。さあ、手を挙げて。存在しているという人は? 存在していないという人は?
 ……ふむ、割れたね。それはそうだ。今は、視点ひとつで有無が変わってしまうような曖昧な話をしているのだから。どちらが正しいとか正しくないとか、それはこの際どうでもいい。
 よし、では次に、人間の五感の話をしよう。急に話が変わったって? 良いじゃないか。それに不都合があるなら聞くが?
 ないか。なら話を進めよう。
 では質問。人間の五感とは何か。これは分かるだろう?
 ……そうだ、「視覚」、「聴覚」、「嗅覚」、「味覚」、「触覚」の五つだ。人間はこの感覚を駆使して日々を生きている。この感覚を頼りに、情報を得ているといってもいい。つまり、人間にとって非常に大切なものであるわけだ。
 そんな五感は、脳の判断の結果であることは知っているかな。もちろん知っているね。いや、決して見くびったり、馬鹿にしたりしたわけではない。念のための確認だ。人間は、目や、耳や、鼻や、口や、皮膚で、情報を取り入れている。それを分析して、認識しているのが脳だ。すなわち、この脳がおかしくなれば、全てがおかしくなることになる。汚いものを綺麗と感じ、名曲を耳障りに思い、花の香りに不快感を覚え、不味いものを美味いと感じ、触っていないのに触られたかのように思う。そんなこともあるかもしれない。
 もちろん、個人差はある。何が綺麗か、美味いか、なんてことは人それぞればらばらだが、まあそれはここでは置いておきたい。大きく見れば、名曲は多くの人間にとって名曲であり、花の良い香りは人を癒す。それに間違いはないからだ。とにかくここで言いたいのは、脳は正確でなければ困るということだ。
 だが、こういう現象があることを知らないだろうか。
 例えば、目の錯覚。同じ長さの線が、違う長さのように見えるといったようなやつだ。
 空耳。実際に音がしたわけでもないのに、したかのように感じる現象。友人が何か言葉を発したかと思ってたずねたら、「いや、何も言っていないよ」だなんて、返されたことはないか。
 ○○味のお菓子。例えばレモン味だとする。食べてみたら確かレモンの味がするが、材料を見ると、レモンの香りをつけただけ。しかも、レモンを使っているのではなく、化学薬品の組み合わせだった、なんて。これは、「この香りはレモンだ」という鼻の錯覚と、その香りがするからその味だと思ってしまう味覚の錯覚だね。
 触覚の錯覚には、「ゴムの手の錯覚」なんてものもある。詳しくは調べて欲しい。
 つまりこのことから、五感はわりと、エラーを起こしやすいということが分かる。ないものをあると感じてしまうことがあるということが分かっただろう。我々の脳というやつは、決して正確にはできていない。そこまでは、分かった?
 それでは、これまでの話を踏まえたうえで、聞いてみたいと思う。
 君、あるいは私、自分、あるいは他人、なんてものは存在するのだろうか。
 我々が現実世界と呼ぶものは、果たして存在するのだろうか。
 ……考えてみて欲しい。データは、電気の集合体だ。極めてわずかだが質量もある。では、人間は?
 そう、原子の集合体だ。原子がいくつも集まって我々を構成している。さて、両者の違いは?
 現実世界もそうだ。人間の脳は騙されやすい。それがそこに在ると、錯覚しているだけだとしたら? 本当はそんなもの、どこにも存在しないというのに。
 人間とデータは違う? そんな錯覚など有りえない?
 確かに、普通に考えれば、人間とデータは比べるまでもなく別物だろう。そして、普通に考えて、現実世界が錯覚だなんていうことはあり得ない。
 だが、それでは確認したい。「普通」とはなんだ。
 かつては、地球の周りを太陽が回っているのが「普通」だった。それは違う、地球が太陽の周りを回っているのだと唱えても、そんなのはあり得ないと言われた。
 その頃、人々はこう言った。
 だって、現に空を見ると、太陽が動いているのが「見える」じゃないか。そして、地球が動いているとは「感じられない」じゃないか。
 ……しかしもちろんそれは、今や覆っている。ここから分かるのは、「普通」ということが「正しい」わけではないということ。
 感覚を信じても、異なる場合があるということ。
 さあ、再び聞こうか。
 君は、存在しているか。
 君の世界は、存在しているか。
―――――
どうもこんばんは、僕です。
『錯覚』、いかがだったでしょうか。
誰しも一度は、「この世界は偽物なんじゃないか」みたいなことを考えたことがあるのではないかと思いますが(ないかな?w)、この作品は、それを考えてみたものです。
物語、とはまた違う感じがしますが、何と言えばいいのか、僕にもよく分かりません。ただ、読み手に語り掛けるこのようなスタイルは、たまに目にしますし、僕は好きですね。
さて、実はこの作品、ブログタイトルにありますように、仲間内でイラストや小説を持ち寄って冊子を作るという、まあつまり同人誌ですね、その企画に向けて書いた作品のひとつです。
A4で4枚までということだったので、極めて短いものになっています。というかこれは2枚半で終わってますしね。
他の作品を掲載してもらうよう提出したので、行き場の失ったこちらはここで公開することにしました。面白いかどうかは微妙です。そう思って、これは没にしたわけなのでねw
ただ、好きだと言ってくれる人はいるんじゃないかな、いるといいなと思っています。
僕は好きですからね。
もしも楽しんで頂けたなら幸いです。
ではでは、ふぁいんでした。
 

コメント

タイトルとURLをコピーしました