迷ってへたれて抱きしめて #2

 

「……着替えるか」
 
 素敵なお声のおかげで心に温かみを取り戻した僕は、制服に着替えることにした。朝の時間ってやつはどうにも足が速いから、そうそうのんびりもしていられない。
  
 着慣れたシャツ、ズボン、そして最後にブレザーへと袖を通すと、何だかふと、感慨深くなった。
  
 三年間着たこの制服ともそろそろお別れなんだよな。
  
 入学当初はだいぶ大きかったのに、おかげさまで背が伸びたので少し小さいくらいになった。
 この少し窮屈で動きにくい感じが、僕の成長の証なんだ。
  
 無駄に数回腕を曲げたり伸ばしたりした後、鞄を持つと部屋を出た。
「はー、あったけぇ」
 
 一階に下り、リビングに入ると思わず力が抜けた。文明の力、偉大なるヒーターさんのおかげで、寒さを感じずに済む室温となっている。
「おはようハル」
 
 そんな僕に、台所に立つ母さんが言った。
「ああ」
 
 短く答えて席に座ると、すぐさま朝食が目の前に出される。毎朝の日常だ。
「サンキュ」
 
 母さんに一言告げて、食べ始めた。
「ん?」
 
 早速、きつね色に焼けたトーストの一枚目をほおばったとき、あることに気がついた。
  
 今、食卓には、僕の目の前で新聞を広げている父さんが座っていて、母さんは父さんの弁当を作っている。
  
 足りない。
「那都葉は?」
 我が妹、秋本那都葉(あきもとなつは)の姿が見当たらなかった。
「ナツなら、まだ寝てるんじゃない?」
 
 母さんが言う。
  
 なるほど、今の時間にここにいないのなら、自分の部屋でおやすみ中なんだろう。
「って、それまずくないか?」
 那都葉は、二つ年下の中学一年生だ。通う中学はもちろん僕と同じ、地元の公立中学。僕がこの時間に起きて朝食を食べているのはそうしないと遅刻するからで、ということは那都葉も今この時間にここにいないと、遅刻するということである。
  
 しかもあいつは女子だ。男の僕と違って、あの長い黒髪をとかすだけでも一苦労しそうなものなのだが……。
  
 しかしそんな僕の焦りとは裏腹に、母さんは呑気に言った。
「良いんじゃない?」
「いや、良いんじゃないって……良くないだろ、遅刻するぞ?」
 起きて来ない那都葉が悪いという理論だろうか。
  
 そういえばあるときから、母さんが那都葉を起こしている姿を見ていない気がする。大抵はちゃんと起きて来る奴だから気にしてなかったけど。
「起こそうにも、母さん、あの子に部屋入ってくるなーって言われてるから入れないのよね。年頃の女の子だから気持ちは分かるし、無視もできないじゃない?」
「那都葉がそんなことを?」
 初耳だ。
「まあナツのことだから、ハルには言わないかもしれないわね」
 その点についてはノーコメントを貫きたい。妹の将来を心配する兄の身として。
「あ、起きるといえば、ハル」
「ん?」
「さっきあなたの部屋で大きな音がしたけど?」
「……ああ、それか」
 急に言われて一瞬ピンと来なかったが、すぐに今朝ベッドから落ちたときのことを言っているのだと気づいた。
「ちょっと、まあ、衝撃的な夢を見てベッドから落ちてさ……」
 夢の内容には触れたくなかったので、誤魔化すように食べかけのパンの残りをを口に詰め込んだ。
「ベッドから落ちるほどびっくりした夢ねぇ……告白してフラれる夢とか?」
「ぶはッ!」
 吹き出した。パンを。
「あら、図星?」
 母さんが驚いたような顔でこちらを見る。
  
 驚いたのはこっちだぜまったく。何だよその超推理。名探偵か。
  
 母さんがさしだしてくれたティッシュで口を拭いながら、僕は内心呟いた。
「へー、ということは好きな人がいるのね。そうよね、もうすぐ高校生だもの。で、相手は誰? お母さんの知ってる人?」
 
 母さんは楽しげに目を輝かせて僕に訊ねた。正直非常に面倒なことになったと言わざるを得ない。
  
 僕はとにかく黙っていることにした。ここは無言を貫くしか選択肢はない。何を言われても表情を崩さず黙っているのが最善だ。
「そうねぇ、茸谷(なばたに)君とか?」
「おいちょっと待て」
 
 沈黙を貫くという僕の決心は一秒ともたなかった。
  
 茸谷。茸谷桜(なばたにさくら)。小学校から仲の良い、話していて楽しい奴だ。だがしかし、れっきとした「男」である。
「どうしてそこで男の名前を出す」
「だって~! 茸谷君良いじゃない? 考えるよりまず行動、みたいなあの強引さがハルにぴったりだと思うわよ母さん」
「だがしかし男だ」
「むしろそれが良いのよ」
 ……頭を抱えた。久しぶりだな、と思う。
  
 この日本には、腐った女子と書いて「腐女子」と呼ばれる、男同士のやりとりにときめきを覚える女性が存在する。
  
 母さんはその一人で、昔から僕をことあるごとに男とくっつける妄想を繰り広げて盛り上がるという変わった趣味を持っている。
  
 いわく、同世代の男では若さが足りないので楽しくないのだそうだ。
  
 別に同性愛を否定する気はないし、趣味そのものに関しても好きにすれば良いとは思うが、困るのは、女の子が好きな僕を男とくっつけようとする点だ。ここは本当に困りもの。
 
 攻めやら受けやら、僕にはよく分からない単語で熱く語り始めてしまった母さんは、僕には止めようがない。
  
 と、そんなときだった。
  
 ――バンッ!
  
 机を叩く音がして、見ると今まで黙っていた父さんが新聞を置いて母さんを見ていた。
  
 真剣そのものの表情で、その口を開く。
「母さん、いい加減にしないか。ハルだって、女の子が好きなはずだ」
 盛り上がっていたところを邪魔された母さんは、少し不機嫌になって言い返す。
「何か文句があるんですか?」
 僕は、ああ、始まるぞと思った。
  
 父さんは言う。
「母さんの趣味をどうこう言うつもりは基本的にないんだけどね、今日は言わせてもらう。男同士なんてちっとも面白くない」
 母さんの表情が険しくなった。
  
 ……こうなってしまうと、もう手はつけられない。
  
 僕は、もはや僕のことなど眼中にない二人から、鞄片手に、逃げるようにリビングに出た。
  
 部屋のなかで、開戦のきっかけとなる一言を父さんが放つのを、僕は外へと出ながら聞いた。
「男同士より女同士の方が数倍素晴らしいね!」
 
 ――外に出ると、朝なので空気は冷たいが、明るい太陽の光が迎えてくれた。
  
 外は清々しい。今現在、家の中では、秋本家のある意味名物、「百合薔薇戦争」が行われていることだろう。
  
 うちの両親は変わっていて、母さんが男同士が好きなように、父さんは女同士のあれやこれやが好きなのだった。そして、そういう男同士のアレを「薔薇」、女同士のソレを「百合」と呼ぶのだ、俗に。
  
 相容れず、何も生み出さず、お互いを傷つけあうだけの不毛な言い争い。まさに「百合薔薇戦争」なのである。
  
 これが勃発するといつも思う。どうしてこの二人は結婚したのかと。
「はあ……」
 
 溜息がもれた。とりあえず、外に出てきてしまったからには学校に行くことにして、自転車にまたがった。
 さて出発しようというその瞬間、
「……ん?」
 家の中から階段を駆け下りる音が聞こえて、まさにペダルを踏もうとしたその足を止めた。
  
 音だけでもひどく慌てているのが分かり、僕の脳内で大体の事情が読めたそのとき、勢いよく玄関のドアが開いた。
「お兄ひゃん!」
 
 梳かす途中なのだろう、櫛を右手に持ち、左手に鞄を抱え、そして口には食パン。
  
 現れたのは、ツッコミどころ満載の我が妹だった。
「お前は一体どこの漫画の主人公だ? 曲がり角でイケメンとぶつかって恋でも始めるのか?」
 
 とりあえずは、そこにツッコミを入れておく。
「うぐ……あぐ……むぐ……っはあ!」
 
 那都葉は言い返す前にまずはパンを飲み込んで、それから言った。
「時間がなかったんだからしょうがないじゃない! お兄ちゃんのいじわる」
 
 言葉とは裏腹に、顔は嬉しそうなのが何ともちぐはぐだ。
  
 僕は言った。
「何とか遅刻せずに済みそうで良かったな」
「うん。お父さんとお母さんの喧嘩で起きた」
「あれは異様だからな……」
 珍しく寝坊気味の那都葉を起こすだけの力があったってことか。
「二人とも、変だよね」
 那都葉が呟く。
「自分の親を変呼ばわりはしたくないけど、まったくだな」
 心の底から同意する。
「恋は、男と女だよね」
「うん、その通り」
「――私と、お兄ちゃんみたいな」
「おう……いや待てい!」
「ああお兄ちゃん……今日も良い匂い。好き」
 外だというのに恥ずかしげもなく兄にくっついてくる妹に、僕は本日二度目の溜息をついた。
  
 昔からこうなのだ。我が家はみんな、少し変なのである。これはもう、諦めるしかない。
「学校、行くか」
 
 僕はペダルを漕ぎ出した。
  
 私も乗せて! と、ちゃっかり後ろに乗っかってきた妹を乗せて。
  
 二人乗り、見つかるとまずいんだけどなあ。
(#3へ続く)
―――――
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