窓から見える太陽は、真夏の頃より、ほんのちょっぴり力がなくなった気がするけれど、それでもまだそれなりの温度を私達の校舎にまで届けていた。
楽しくて、嬉しくて、毎日が幸せだった夏休みが終わり、今日は九月六日。
私は生死に関わる危機的状況に直面していた。
それはあまりにも唐突な、お兄ちゃんの変化だった。
「遥が那都葉ちゃんに冷たい?」
「はい、そうなんです……」
お昼休み。どうにもこれは一人だけでは解決できそうもなかったので、私はこっそり、桜さんに相談することにした。
桜さんは小さいころからお兄ちゃんを知っている唯一の人だった。お兄ちゃんのお友達の中では、一番付き合いが長い。
小さい頃からお兄ちゃんが好きで、ずっと後をついていっていた私も、昔は一緒に遊んでもらっていた。この私に分からないお兄ちゃんの変化について何か分かるとしたら、桜さん以外にはいない。
お兄ちゃんに見つからないようにとやってきた校庭の片隅で、すがるような思いで桜さんに尋ねた。
「何か心当たりありませんか?」
「うーん、そうだなあ……」
何か別の原因があってほしいと願った。「私」以外の、別の原因が。
「遥のやつ、別に普通だったけどなあ」
しかし返ってきたのはそんな答えだった。
「そう……ですか」
桜さんには普通ということは、今日たまたま機嫌が悪いという可能性は薄くなる。となると考えられるのは、考えたくないことだった。
「ちなみに、冷たいっていうのはどんな感じだったんだ?」
「え? えーっと……」
問われて、私は今朝からのことを桜さんに話した。
まず、朝起きた時のこと。
「おはようのハグを求めたら、冷たく一言、『やめろ』って言われたんです。いつもなら、何だかんだ言いながら、『ったくお前は……』って最後には抵抗をやめてくれるのに」
それから、学校へ行くときのこと。
「お兄ちゃん、私のこと待っててくれなくて……。確かに少しだけ、遅刻しそうな感じにはなっちゃってたけど、それでもいつもなら、本当に遅刻しそうでまずいって時以外待っててくれるんですよ」
そして、学校に着いてからのこと。
「お兄ちゃんの様子が気になったから教室まで会いに行ったら、『用もないのになんで会いに来るんだ?』って言われちゃいました。お兄ちゃんは誰よりも、私がお兄ちゃんのこと好きなの知ってるから、こんなこと絶対に言わないんです」
今振り返ってみても、やっぱりどう考えても、おかしかった。お兄ちゃんは私にこんな態度はとらない。拒否されるのはいつものことだけど、でもお兄ちゃんは絶対に、私が甘える余地を残してくれるのだ。
「なるほど、確かにそりゃあ、遥らしくはねぇな……」
私の話を聞いて、桜さんも違和感を覚えたようだった。私の思い込みではなかったことがこれで証明されたことになる。
「……でも、」
桜さんの言葉は続いた。
「それは遥だからであって、普通の兄貴ってのは、大体そんなもんなんじゃないか?」
「え……?」
それは私が思ってもみない言葉だった。
「ど、どういうことですか?」
私は桜さんに詰め寄った。すると、言いにくそうに頭をかきながら、桜さんは教えてくれた。
「いや、俺に妹がいるわけじゃねぇから断言はできないんだけどよ、俺には遥以外にも妹持ちの男友達がいるが、大抵そっけないもんなのさ。那都葉ちゃんが言った『冷たいお兄ちゃんの言動』ってのは、一般的にはよくある話で、そんで多分、そっちの方が普通なんだと思う」
妹とハグしたり、毎日毎日一緒に登校したり、妹が会いに来ても疑問に思わなかったりするのは、すごく特殊なんだよ。
と、桜さんは私に告げた。
「つまりだ、今までの遥が優しすぎただけっていうかさ。それが、普通になった。きっと、あいつなりに思うとこもあったんだろ。だから、実はそんなに気にすることじゃないと思う。俺は」
「お兄ちゃんが、特殊……」
「おう。だからな、これは提案なんだけど、これを機に那都葉ちゃんも少し兄離れしてみるっていうのは――」
「――そんなのおかしいよ!!」
思ってもみないほど、大きな声が自分の口から出た。
「な、那都葉ちゃん?」
桜さんが驚いた顔をしている。しかし、破裂してしまった思いはおさまらない。
「例え周りがどうだろうと、お兄ちゃんはお兄ちゃんだもん! お兄ちゃんは優しくて! 優しくて優しくて優しくて! いつも私を包んでくれるんだもん!」
それは本当に、心から声が出てくるような感覚だった。
「世の中の普通なんて関係ないッ! 私にとっては……私にとっては……あのお兄ちゃんが普通なの! だからやっぱり今はおかしいの! おかしいんだよ……絶対に……」
溢れる思いが心の防波堤を壊すように、ついに耐えられなくなって、じわっと、涙が込み上げてくるのを感じた。
「お、おい……那都葉ちゃん、大丈夫か?」
「私……わたしっ……お兄ちゃんに、嫌われちゃったのかなあ……」
一度口にすると、もう涙が止まらなかった。言葉にしたのはまずかったのかもしれない。
でも、やっぱりどう考えても今日のお兄ちゃんは普通じゃなくて、それはつまり、原因があって、それはきっと、私なのだった。
「お兄ちゃんに愛想尽かされたら私……生きてる意味なんて、ないよ……」
「おいおい那都葉ちゃん……そりゃ大袈裟じゃ……」
「駄目なのッ! 私は、妹以上は望まない……でも、妹としては、愛されたいんだよ。そうじゃなきゃ、そうじゃなきゃ……」
「那都葉ちゃん……」
桜さんを困らせていることは感じていた。桜さんの戸惑いも分かっていた。でも、この涙は止まらない。私にも、桜さんにも、止めることはできなかった。
「――はあ、こりゃどうやら無理だぜ、遥お兄ちゃん」
「そう、みたいだな」
……え?
私は顔を上げた。
「お、にいちゃん……?」
そこにはお兄ちゃんが立っていた。私の大好きな、遥お兄ちゃんが。
「え……な……どうして……」
「悪かったよ、那都葉」
混乱する私に、お兄ちゃんは謝罪の言葉を述べた。
「いや、本当に悪いのは俺だ。俺が遥に、『今日は妹の日だ』なんて余計なこと言っちまったから。那都葉ちゃんを泣かしちまった。すまん!」
「ど、どういうこと……?」
「まあとりあえず、あの木の陰にでも座って落ち着くか」
妹の日。
それは、一九九一年に制定された記念日。
星座占いなどで誰もが知る自分の星座。その星座は生まれた月日によって決まるが、その乙女座の期間、八月二十三日から九月二十三日の中間の前日、つまり今日、九月六日がこの日にあたる。
妹の可憐さを象徴する日だから、乙女座の期間の中間であるこの日になったらしい。
「――そんでな、なんでもこの日を制定した人ってのが、『現代に活躍する女性の多くが妹である事実』に気付いた人なんだってさ」
たまたまテレビの雑学クイズ番組でやってたんだ。
そう桜さんは教えてくれた。
お兄ちゃんの隣で、優しく頭をなでてもらって泣き止んだ私は、冷静になった頭で考えた。でも、どうにもその説明を聞いただけではピンとこない。
「それとお兄ちゃんが冷たかったのと、どういう関係があるの?」
尋ねると、今度はお兄ちゃんが答えてくれた。
「実はさ、心配だったんだよ。お前のことが」
「私のことが?」
「中学生になってしばらく経つけど、那都葉は小学生の頃から少しも変わるそぶりがない。いつまでも僕にべったりで、これではまずいんじゃないかと思ってな。それをちょっと、桜に相談したんだ」
「おうよ。で、ちょうど『妹の日』のことを知ったばっかりだった俺は、那都葉ちゃんに「活躍する女性」になってもらうため、今日一日那都葉ちゃんに冷たくして、兄離れさせてみたらどうかって提案したわけ。そうするのにちょうど良い日なんじゃないかなあって思ってさ」
「こいつが、『遥は那都葉ちゃんに甘すぎる! 普通の兄貴はそんなに妹にかまわないぞ』って言うから、まあそうだよなって気もしてな」
「その結果泣かしてしまったわけよ……いやあ、これは予想外。ほんとにごめんな、那都葉ちゃん」
「そういう、ことだったんだね……」
ようやく、私にも全てが理解できた。
つまりは、桜さんの妙な思い付きと、お兄ちゃんの私を心配する気持ちが組み合わさって、こんなことになったということ。私は、嫌われたわけじゃないということ。むしろお兄ちゃんは、私のことを考えてくれてたんだ。
……ふふっ!
なあーんだ、やっぱりお兄ちゃんは、私の知ってるお兄ちゃんじゃないか。
「ごめんな、那都葉」
「マジでごめんよ、那都葉ちゃん」
私を泣かせてしまったことが、二人にはよっぽど悪いことをしたように思えるらしかった。確かに怖くなって泣いてしまったけれど、でも結果として二人は悪くなかったから、私には、謝られる理由はないように思えた。
でも、せっかくだから……
「……桜さん、妹の日ってことは、多分きっと、妹が主役だよね?」
「ん? ああ、まあ、そうなんじゃねぇかな」
「じゃあお兄ちゃん、提案があるんだけどさ」
「お、おう、なんだ?」
「今日、残りの時間は、いっぱいいーっぱい! 私に甘えさせてくれるってのは、どうかな?」
私は微笑んだ。答えはもう、分かっていたからだ。
お兄ちゃんも、すぐに私の意図を理解したらしく、苦笑する。
「ったくお前は……ちゃっかりしてやがんなほんと」
「わたしですから!」
「で、何がお望みだ、妹様よ」
「えへへ、わーい!」
私のお兄ちゃんはやっぱり優しかった。
いつまでも好きだよ、お兄ちゃん。兄離れなんてしない。きっといつまでもお兄ちゃんは、優しいままでいてくれるから。
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※このお話は時系列で言うと、『迷へた』本編以前の、遥が中三の時の9月6日のできごとです。
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