迷ってへたれて抱きしめて #4

 

 なぜ自分の教室に真っ直ぐ行けないのか。
 その理由は、那都葉にある。
『おにいちゃん、ついてきてくれるよね……?』
  
 あれはそう、こいつが幼稚園に入園した十年近く前の話だ。
  
 うっすらとしか記憶していないが、多分そんなこと言われて、当時年長さんだった僕は那都葉をこいつの組にまでつれて行ってやった。
  
 最初だから不安もあるだろうという思いとか、兄として妹の面倒を見ようという責任感とか、しっかりしてる様子を親に見せたいとか、多分そんな理由でそうしたんだと思う。
 
 しかしそれは、最初だけで終わらなかったのだ。
「さ、教室行こ。お兄ちゃん」
「はいはい」
 ――以来十年間、こんな調子で那都葉を教室まで送り届けているのである。
  
 もっとも最近はもはや、僕が送り届けているのではなく那都葉に連行されているようなものなんだけど。
  
 朝は決まって、まるで「逃がすもんか」と言わんばかりに那都葉が腕に絡み付いてきて、半ば引っ張っていかれるのである。
  
 だから、
「あ、なっちゃんと遥さん来たー」
「毎朝お疲れ様です、遥さん」
「あとは私たちが引き取りますんでー」
 那都葉のクラスの女子とは、すっかり顔なじみだ。小学校から同じ奴がほとんどなので、みんな慣れっこである。
  
 ちなみに、彼女たちが僕を「遥さん」と名前で呼ぶのは、どうやら那都葉が怒るかららしい。普通、友達の兄なら「お兄さん」とか呼びそうなものだが、すると、
「お兄ちゃんは私のお兄ちゃんだよ?」
 と、ものすごい笑顔で言うのだそうだ。その目の奥に、よく砥がれた刃物のごとき鋭さを見た、とは那都葉の友達談だ。
  
 ……一体何に嫉妬しているのかねぇ。
  
 ちなみに、「お兄さん」と言えば、
「おはようございますお兄さん!」
「「おはようございます!」」
 何だか分からないのだが、一年の男子にはよくそう呼ばれる。
「那都葉さんの大切なお兄さんだ! 礼を尽くせ!」
 などという声が聞こえてきたこともある。
  
 まるで、那都葉の家来であるかのような振る舞い。あいつは一体、男子とどう接しているんだろうか……。
 とにかく、那都葉の友達、そして男子諸君に挨拶を返してから自分の教室に行くのが、僕の毎朝の日課となっている。
 一年の教室は四階にあって、三年の教室は一階にあるので、移動だけでも地味に疲れるんだ、これが。
  
 階段を下っていくと、那都葉の担任の先生と出会った。
  
 実は、この先生とは毎日このタイミングで顔を合わせている。僕もだが、人間って奴はどうも、無意識のうちに毎日同じ行動を同じ時間にしてしまうらしい。
  
 いわゆる習慣化というやつで、毎日毎日繰り返していると、本当に無意識に体がそう動くようになる。ボーっとしていても、自然といつもの行動をしていたなんてことはざらにある話だ。
「秋本お兄さん、おはよう」
 目が合ったので、先生が挨拶をしてきてくれた。これもいつものことで、先生が僕のことを、まるで子ども向け番組の体操のお兄さんを呼ぶがごとく「秋本お兄さん」と呼ぶのにもすっかり慣れた。最初は、何か変な気がしてむずむずしていたものだけれど。
「おはようございます、先生」
「いつも大変ね」
「慣れましたけどね」
「先生達の間では、今時珍しい妹思いのお兄さんだって評判なのよ」
「はは……」
 実のところ、思いやりからやっているのではなくて、半ば強制的にやらされてるんですけどね。
 とは言わない。
「でもそれもそろそろ終わりなのよね。もう卒業だから」
「まあ、そうですね」
「あと少し、お兄さんのお役目、頑張ってね!」
 僕に応援の言葉をかけ、頑張れ、とガッツポーズをしながら、先生は去っていった。
 言われなくても、卒業まではあいつが放してくれませんよ。
  
 とも、もちろん言わなかった。
  
 一階に下りて、自分のクラスへ入ると、桜が僕を見つけて手を振ってきた。
「毎度お疲れ、遥」
「おう」
 自分の机に鞄をひっかけてから座ると、前に桜がやってくる。
「お前が那都葉ちゃんを送って教室に入ってくるのも見慣れたもんだが、もうそろそろで終わりなんだよな。高校は、同じとは限らないし」
「それ先生も言ってたぞ」
「うちの担任が?」
「いいや、那都葉のクラスの先生」
「なるほどね、先生も慣れたんだろうな」
「ああ」
 ふと視線を窓の方へ流した。今日は申し分ない快晴で、暖かそうな冬の青空が広がっている。
  
 ここから眺める景色にもすっかり慣れた。教室の風景も、柱の落書きも、机の傷跡も、見慣れたものだ。見渡す限りどれも馴染み深いものばかりで、真新しいものは何もない。しかしそれが、どこか安心できた。
  
 でも、本当にもうすぐなんだよな。もうすぐで、この学校とも……
「あー、何かしみじみしちゃってるわ、俺」
 思いきり伸びをしながら、桜がやたら大きな声で言った。本人はそんなつもりはないのだろうが、こいつの声はよく通るのだ。
  
 いつもならば、うるさく感じたかもしれない。
「……僕もだ」
 しかし今日ばかりは、何かそれも心地良かった。
「終わるんだと思うと、見慣れたものが大切に感じるよな。大切だったんだなって気付く」
「お、良いこと言うねぇ遥。その通り!」
「なんて言うか、高校でもよろしくな、桜」
「おう、もちろんだ!」
 いつも通りの笑顔で力強く告げてくれた友達に、思わず僕も笑ってしまった。
 我ながら、ちょっと恥ずかしい台詞だと、言ってから思った。けど、そういうのにも真っ直ぐ応えてくれるのが、こいつの良いところだ。
「ところでそんな親友の遥君、一時間目の数学、昨日出た宿題で分からないとこがあるんだが」
「どこ?」
「多分全部。でもまず、宿題の範囲が分からん」
 ……ちょっと馬鹿だけどな。
「ふふっ」
 クスリと笑う声がして、僕は振り向いた。桜も同じく目線をやって、僕達二人は同時に傍に立つその人物に気付いた。
  
 が、声を出したのは桜が早かった。
「何だよ兎束ぁ、何笑ってんの?」
「いや、範囲からかーと思って。何か面白くて」
 そう、そこにいたのは兎束さんだった。いつものポニーテールをゆらしながら楽しそうに笑う彼女を見るも、僕は何も言うことができない。何もかもに慣れたと思われた中学生活のなかでも、兎束さんと話すのだけは全く慣れていなかった。残念なことに、ほとんど彼女とは接点がないのである。
  
 一方で桜は、僕と話すのと変わらないテンションで話を始めた。
「笑い事じゃないんだぜ? こっちは真剣なんだ。何しろもうすぐ授業始まるんだからな」
「ごめんごめん。でもさ、範囲くらいならメールするとか、何か手があったんじゃないかなあ。そうしたら、少しは分かるところを家で解けたかもしれないのに」
「俺も遥も携帯持ってねぇもん」
「なら家に電話するとか」
「その手があったか!」
 そしてさらに馬鹿を露呈し、またもや兎束さんの笑いをとっている。本人は至って真面目だろうが。
 そんな愛すべき馬鹿、もとい桜が、一言も発していない僕に言った。
「遥、気付かなかったのは俺のミスだ。急いで教えてくれ、マジで。今ノート取ってくっから!」
 そして、慌てた様子で自分の席に行ってしまう。
  
 僕と兎束さんの二人になってしまった。
「……」
「……」
 途端に静かになる。
  
 何かを言わねばならない雰囲気だが、何を言えば良いのか分からない。今朝の夢もフラッシュバックして、さらに一人で気まずくなった。
「――いつも茸谷君に勉強教えてあげてるよね」
 結局僕は何も言えず、先に口を開いたのは彼女のほうだった。
  
 情けないが、救われた気持ちになって、すぐさま答える。
「まあ、ね……うん」
 が、言葉が続かない。何やってんだ僕!
  
 幸いなことに、兎束さんは気にした様子もなかった。普通に話し続けてくれる。
「前からさ、教え方上手いなあって思ってたんだ。今度私にも教えてよ」
「えっ、いや、兎束さんはそんなの必要ないでしょ」
「えー、駄目? 高校からはどうなるか分からないじゃない。もっと難しくなるだろうし」
「いや、駄目じゃないけど……」
「やった! ありがと秋本君!」
 ぶい、とピースを僕に見せて、約束だよ! と彼女は言った。
  
 それには何も言うことができなくて、答えられないでいるうちに桜が戻ってきた。
「あ、じゃあ頑張ってね。茸谷君も!」
 兎束さんは友達の元へと歩いていった。
「何、あいつ希代なの?」
 戻ってきた桜が脈絡もなく言う。
「さっき、高校からがどうとか言ってなかった?」
「言ってたけど……え?」
「だから、高校の勉強教わるってことは、兎束、俺達と同じ高校なんだろ?」
「ああ、そういうことか」
 ようやく桜の言いたいことが分かった。
「そうか、桜お前知らなかったのか」
「知らねぇよ、そんな特に仲良いわけでもねぇし。つか遥、お前知ってたのか。何で知ってんだ?」
「え」
 桜は不思議そうに俺を見ている。
  
 言われてみると、同じクラスとはいえ進学先を知らないクラスメイトもわりといるし、仲良くなければ知らないのが普通なのかもしれない。特に女子に関しては知らない奴多いしな、僕。大半知らない。
  
 特別仲の良い桜には、僕と兎束さんがあまり話をしないことだって分かっているだろうし、それだけに不思議なのだろう。
  
 さて困った。どうしたものか……。
  
 上手い言い訳が思い浮かばないぞ。
  
 答えられずにいると、桜がふと、閃いた顔をした。
「あ、分かった。さてはあれだろ? 遥お前……」
 ギクリ。ギクリギクリ。
  
 まさか、バレたか……? 僕が兎束さんのことを好きなのが。
「進路先調査の紙が見えた、とかだろ? 確かあの調査した夏休みの講習のとき、出席番号で座れって言われたから、お前の後ろ兎束だったもんな」
 そうかーそんときかー、と、僕は何も言っていないにも関わらず桜は自己完結して満足そうな顔を浮かべた。
  
 正直助かったのでそのままにしておく。九割当たりみたいなものだしな。
  
 正しくは、「見えた」のではなく「見た」のだけれど。
  
 桜はこういうとき、稀にニアピンするんだよな、なぜか。いや偶然だろうけど。
  
 ともかく危機は乗り越えた。
「おーし遥、ちゃっちゃと教えてくれ、数学」
「おう」
 桜に数学を教えながら、僕はちらりと兎束さんを見た。
  
 女の子の輪のなかで、楽しそうに話している。
  
 
……勉強を教える、か。
  
 僕のなかで、予習復習をしっかりやることが、今決定された。
(#5へ続く)
―――――
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