痴漢とは、こういった満員の電車などで、女性に対しわいせつな行為を働く、自分の性欲すらまともに制御できない動物と同等の馬鹿野郎のことである。いや、理性を持つくせにそういうことをする人間の痴漢の馬鹿と動物を比べるのは、動物に失礼か。
痴漢は、「痴漢罪」というものがあるわけではないものの、もちろん犯罪である。嫌がる女性の体を触ったくせに無罪などありえない。多くは、女性側が抵抗できないことを良いことにそういうことをしているんだからな。悪質極まりない。
痴漢するような奴を好きな人はそういないと思うが、僕は特に嫌いだった。
僕が見ているとも知らず、痴漢のおっさんは徐々にその行為をエスカレートさせてきた。女の子の抵抗が弱々しいことに味を占め、ついにその手は、彼女のスカートの中を目標点にしたようだ。わざわざこの満員の窮屈な車内で少し体をまげ、彼女の膝の裏あたりからなで上げるようにして少しずつスカートへと近づいていく。彼女の身に着けている、黒のオーバーニーソックスの感触でも楽しんでいるのだろうか、布地の部分を何度もさすりながら、やがて露出したふとももへと手を回した。ニーソックスと肌の境目がお気に入りのようで、そこもまた、何度も触れ、ソックスの中へと指を入れたりしている。
「やめ……やめて……」
男の行為が進むにつれて、女の子の声は恐怖からか、さらに弱々しくなってしまっていた、もうここからでは、電車の走る音に紛れて途切れ途切れにしか聞こえない。
人の隙間から懸命に様子を窺うと、その体は小刻みに震えているように見えた。脚と脚の間、内腿の部分をさすられると、いっそう大きく、跳ね上がるように体が揺れる。。これはおそらく、電車の揺れではないはずだ。
くそ。
僕は毒づかずにはいられない。
昔の記憶が蘇ってきた。あれは、もう一年経つだろうか。那都葉が中学に入る少し前のことである。
あの日も似たような満員電車だった。僕と那都葉が電車で移動中、那都葉が小声で言ったのだ。
「お、お兄ちゃん……な、なんか、さ、触られてる……」
あの時の怯えた那都葉の顔を僕は忘れないだろう。
もちろんその時、僕はすぐに声を張り上げた。しかし、那都葉がまだ小学生だったこともあり、そして僕もまだ、今より背も小さくより子供っぽかったがために、子供の勘違いだろうということで済まされてしまったのだ。小学生の体なんて誰が触るんだと馬鹿にする奴さえいた。那都葉に痴漢したはずの犯人も、その騒ぎに乗じてどこかへ行ってしまったみたいだったしな。
でも、那都葉は嘘をつかない。あんな嘘をつく意味もない。
だから、誰が笑おうとも、相手にされなくとも、僕は妹の言葉を信じた。
あのとき、親がいなかったことを今も悔やんでいる。
僕は、車内を見回した。
僕が気付いたくらいなのだから、少なくともすぐ近くにいる大人は気がついているはずだった。誰か、彼女を助けてはくれないものかと思ったのだが……。
……駄目だ。
気になってはいながら、厄介ごとは御免だとばかりに見てみぬフリをしているのが、少し見ただけで分かった。明らかに、「平静を装うとしている」のが見てとれた。
現代人の悪い癖、見てみぬフリ。本当に、悪い癖だ。
今一度、女の子を見る。
今のところ後姿しか見えていないが、高校生か、もしかしたら僕と同じくらいだろうか。
おっさんの手はついにふとももから臀部に至っており、なで上げるようにしたために、――あるいはそうすることが目的だったのかもしれないが、スカートがめくり上がり、その下の白が露呈してしまっていた。僕は思わず目を背けた。
黒、肌色、そして白。黒と白がそれぞれ体に密着し、緩く締め付けているが故に、その柔らかさが際立つ。……刺激が、強い。
目を逸らした先のおっさんは、ついにそしらぬ風を装うことすらやめ、顔を欲望に歪めていた。女の子の反応を楽しんでいるようにも見える。
……どうする。
いや、本来ならどうするも何もない。すぐさま彼女を助けるべきだ。それは分かりきっていた。だが、ここまで僕がそれに踏み切れなかったのは、那都葉のことがあるからだ。あの時のように、逃げられたら? それでは彼女が報われない。みじめな想いをするだけだ。だからせめてそうならないように、大人に助けてもらいたかったのに。その大人は役に立ちそうもない。
迷う僕の視界に、――ある光景が飛び込んできた。
泣いて……る。
彼女が頭の向きを変えたことで、その横顔が見えた。その顔は恐怖で染まり、涙に濡れていた。言葉の抵抗も意味を成さず、助けも来ない。そんな絶望が、彼女の頬を濡らしているのだろう。
僕は己の馬鹿さ加減を笑った。
もし逃げられたらだとか、そういうのは二の次で良かったのだ。一刻も早く彼女を助けてあげる。それで良かった。それに、誓ったんじゃないか。
迷わず行動しよう、って。
それに気付いた瞬間、体が動いた。
この際迷惑など気にしていられない。力任せに人ごみを押しのけて一気に男の元まで行くと、散々女の子を苦しめたその腕の手首の部分を掴み、思い切り締め上げた。
「痴漢は犯罪だ、馬鹿野郎」
自分でも驚くほど低く唸るような声が出て、ああ、こんなに腹が立っていたのかと、その時自分で認識した。
「し、知ってます……」
圧倒されたのか何なのか、男は驚愕に目を見開いたまま、それだけ呟いた。
知ってるならするなってんだ、バーカ。
――次の駅で、男は駅員に引き渡された。
「君がこの男を捕まえたんだね?」
駅員の一人が僕のところへやってきた。
「あ、はい」
「じゃあすまないが、君も一緒に来てくれ。状況が知りたい」
「分かりました」
「もちろん、被害に遭った君もだ」
駅員が、僕の後ろへ声をかけた。
そういえば、あの馬鹿への怒りのせいで女の子のことを忘れていた。
振り向くと、
「は、はい」
未だ涙を浮かべてはいるものの、一応平静を取り戻したらしい女の子がそこにいた。
び、美少女だ……。
それが、彼女、月野琴美(つきのことみ)さんの、第一印象だった。
(#9へ続く)
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