私は、ソファーの上からお兄ちゃんの後ろ姿を見ていた。お兄ちゃんはさっきとらメイトで買ってきた本を読んでいる。特に何かを言ってくることはなく、ただ、黙って床に座っている。
でも私には分かっていた。お兄ちゃんには何もかもがお見通しだということを。だからこそ、自分の部屋ではなくて、ここにいてくれている。
私は膝を抱えて、つい先ほどあった色々なことに思いを馳せた。
いくつもびっくりするようなことが起きた。とらメイトに秋本君がいたこと、突然現れた知らない子……。でも、一番びっくりしたのは、私自身の行動かもしれない。
笑えるなんて。
よろしくね、なんて。
そんな言葉が出てきた自分に、何だかとっても、驚いた。
あの子、月野さん。可愛い子だった。大人しくて、控えめな感じで、とても女の子らしい。そして多分、すごく純粋だ。
『秋本さんって、彼女とか好きな人とかいるんでしょうか?』
こっそりそう訊いてきた彼女が、秋本君に対して真剣なことはすぐに分かった。
好きな人がいるのかどうかは私も知らなかったから、
少なくとも恋人はいない。
……そう答えておいたけど。
本当に一瞬、嘘を教えてしまおうかなんて、そんな考えがよぎって。
そうすればあのおとなしそうな性格からして諦めるかな、なんて思ってしまって。
――そんな自分が、怖くなった。
もしかすると私は、すごく汚い人間なのかもしれない。
「ねえ、お兄ちゃん」
私は兄に話しかけた。
「私って、悪い子かな?」
お兄ちゃんは、すぐには答えてくれなかった。でも、少しの間の後、
「……そんなことねぇよ。美海がそれだけ本気ってだけだ」
そう言ってくれた。
――やっぱり、お兄ちゃんはすごい。
少ない言葉でも、ちゃんと私を分かってくれる。
昔からそうだった。お兄ちゃんはいつも「私」を見てくれていた。そして、お兄ちゃんの言うことはいつだって、正しいんだ。
私は、秋本遥君が好きだ。どうしようもなく、好きだ。私だけを見てくれたら嬉しい。私も、彼だけを見ていたい。彼に好きだって言われたい。それはきっと、とても幸せなことだから。
例えどんなに可愛い子が相手でも。
私は、自分を信じたい。
私にだって、きっと魅力はあるはず。
これだけは、負けられないから。譲れないから。
明日は月曜日。今日のことがあったから、秋本君にも話しかけやすい。少し緊張するけど、頑張ろう。
そして、今日は言いそびれてしまった告白も、近いうちにきっと。
――もうすぐ、卒業式だ。
自分が誰かに会うことで、こんなに幸せな気持ちになれるなんて、今まで知らなかった。
「ねえ、これが恋なのかな?」
ぬいぐるみのなかで一番のお気に入りの子に、聞いてみたりしちゃったり。
秋本遥さん。
助けてもらったあのときから、なぜか不思議と、頭から離れなくて。あの人の色んなことを知りたくて、そうしてふと、これが人を好きになることなんだって気がついた。小学校からずっと女の子しかいない環境にいて、初めての、お父さん以外の、男の人のお友達。
高校に入ったら、もしかしてできるかなあなんて思っていたけれど、あんなことをきっかけにできるなんて。そして、好きになってしまうなんて。
今日会ってもらえただけでも幸せだったのに、ついつい欲張ってしまった。でも思い切ったおかげで、
『じゃあ、次は僕から誘います』
って、メールで言ってもらえた。それがまた、とても嬉しかった。
兎束さんもとても良い人だ。アドレスを教えてもらったから、送って話してみたけれど、すごく話しやすい。私の気持ちにすぐ気づいてくれたみたいで、秋本さんのことも色々教えてくれた。小学校から同じだけあって、兎束さんは彼のことを、本当に色々知っている。
……正直、それが少し羨ましくもあった。
兎束さんの話を聞いて、新しい秋本さんを知る度に、自分がいかに、彼のことを知らないかを思い知らされた。会ってからまだ全然時間が経っていないのだから当たり前だけれど、できることなら私も兎束さんみたいに、彼のそばで、彼と一緒に、笑っていたいと思う。
兎束さんは彼と高校も一緒みたいだ。つまりこれから先も、彼女は秋本さんと一緒にいるということ。私も、あと一年早く彼と出会えていたら、同じ学校に行けたかもしれないのに。
私は、壁にかけてある高校の制服に目をやった。新しい生活がもうすぐ始まる。それは楽しみだけど、不安も大きい。あの学校は、女子の割合が多いとはいえ、共学だから。
高校は自分で決めた。あえて男の人がいる環境を選んだ。……変わりたかったから。
私は、男の人と話すのが怖かった。ほとんど話したことがないから、自然と身構えてしまう。女の子なら多少は気持ちも推測できるけど、男の人が何を考えているのかはよく分からないし。
そんな自分じゃいけないと思った。学校は女子校が選べるけど、会社はそうはいかないこともあるだろうから。社会に出たら困ると思った。
でも、いざ通うとなると、やっぱり怖さもあるのだった。それもあって、なおさら思うんだ。秋本さんがいてくれたら、きっと怖さもなくなるのに、って。
痴漢に遭ったとき、いつもそうだったけど、あの日は一番怖かった。逃げられそうもなかったし、頑張ってやめてと言っても、やめてはくれなくて。むしろ、ますますエスカレートしていって。本気で、誰かに助けてほしいと思った。
そうしたら、彼が助けてくれた。まるで、絵本に出てくる王子様みたいに。
私は彼の、お姫様になりたかった。
寝てしまったお兄ちゃんの手を、私は自分の胸にあてた。
伝われば良いと思う。伝えられたら良いと願ってきた。私がどれほど、お兄ちゃんを想っているのかを。
でもそれは、叶うことはない。これから先も、ずっと。
「お兄ちゃん……好きだよ」
耳元で呟いた、決して届くことのない言葉。寝ているからじゃない。起きていたとしても、私が言うこの言葉は、届いてほしいかたちでは届かないんだ。
『僕は、ずっとお前の兄貴だ。それは一生変わらない』
お兄ちゃんは私を安心させようとして言ったんだろう。それ以外の意図はなかったと思う。でも、だからこそ、私の心に深く刺さった。
お兄ちゃんは、当たり前だけど、一生私の兄であることを、少しも疑っていない。それはつまり、どんなに頑張っても、私が「妹」以外の存在になれる余地はないことを意味している。お兄ちゃんにとって私は、一生妹なんだ。
もちろんそんなの、分かりきっていたことだった。むしろ、妹は誰よりもお兄ちゃんのそばにいられるから――こうして一緒に寝てしまうことだって、お願いすればできてしまうから、そんな「妹」は、他の子とは違う特別な存在なんだって思ってた。
でもそれは半分当たりで、半分はずれだったって、今日見せつけられた。
お兄ちゃんが、私の知ってる人と知らない人、二人の女の子と会っていた。一人はお兄ちゃんのクラスメートの、確か、兎束先輩。もう一人は、知らないけど、とっても綺麗な人。
「そういうこと」があるって、気づかされたんだ。お兄ちゃんが、誰かを好きになって、その誰かもお兄ちゃんを好きになって、付き合って、結婚してしまうってことがあるのだと。
私のお兄ちゃんが、私以外の誰かを、一番に愛してしまうってことがあるんだと。
……だから、半分当たりで、半分はずれ。
妹は間違いなく、他の子とは違う存在だ。私以外の誰も、お兄ちゃんの妹にはなれない。お兄ちゃんの妹は、世界で私一人だけ。
でも、特別な存在ではなかった。私がお兄ちゃんに甘えると、お兄ちゃんは優しいから、いつも応えてくれるけれど、それができるのは、決して私一人だけじゃない。
お兄ちゃんの愛した誰かが、私がされるみたいに頭を撫でられる日が、きっと来る。
私がするみたいに抱き付いて、お兄ちゃんに抱きしめられる日が、きっと来る。
そして。
私がどんなに頼んでもしてもらえないキス、さらには、それ以上にとってもとっても深く愛してもらうことだって、その子にはできてしまうんだ。
私が欲しい「好き」をもらえるし、私が伝えたい「好き」を伝えることができるんだ。
「……愛してほしいよ、お兄ちゃん」
お兄ちゃんは今、私のすぐそばにいた。だけど私には、何だかとても遠く感じた。お兄ちゃんの手を自分の頭にあてて、その温かさに触れても、それでもやっぱり、遠かった。
高校生になったら。
私の予想していることが、現実になってしまうだろう。
全部じゃないかもしれない。でも、きっと……。
そう思うと、もう我慢できなくて。
頬を伝っていく涙を止めることもできなくて。
いけないことだけど、お兄ちゃんの手で。
私はひとり、何も知らずに寝ているお兄ちゃんに、愛してもらった。
「……んっ…………あっ……! おにい…………ちゃん……!」
それはどうしようもなく切なく、体全体に伝わっていく。
今日…………だけだから……もう、しないから…………
ちゃんと……妹でいるから……
だから、ごめんね……お兄ちゃん……。
涙は少しも止まらなくて、私は泣き続けた。おさまるまで、何度も何度も、自分の妄想でしかない愛に浸った。
ようやく涙が出なくなった頃には、もう私はくたくたになっていて。痛かった心も、鈍くなってきていて。
容赦ない睡魔が徐々に私を引きずりこんでいった。
――私がもしも妹として生まれてこなかったら。
そんな幸せな夢でも、見られると良いな。
(#19へ続く)
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