「あっ!」
突然台所から、よく通る叫び声が聞こえてきた。立ち上る良い香りを感じながら、呑気にソファでスマホを見ていた俺は、慌てて声のもとへと急行する。
「どうした!?」
先ほどまで、とんとんとん、と小気味いい音を立てながら、包丁の音が響いていたはずだ。指でも切ったか、はたまた包丁を落としたか、いや、もしかすると、鍋でもひっくり返したかもしれない。あり得る可能性を頭に浮かべながら声をかけると、当の本人は、キッチン横の小窓から外を見つめていた。
「……ひなた?」
静止して一点を見つめる彼女の名前を呼ぶ。するとひなたは一転して、満開の笑みで俺の胸に飛び込んできた。
「やな君! 雪だよ雪!」
「うおおおおおあああああ!!??」
心からの絶叫を繰り出す俺。抱きつくのは良いとして、その手に握った包丁は置いてからにしてくれませんかねぇえええええ!!!!
「あ、ごめん」
俺の悲鳴を聞いて、ようやく自分のしていた危険行為に気づいたらしい。すっと離れたひなたは、包丁をまな板の上に置き、それから何事もなかったかのように俺の腕の中へと戻ってきた。
「……やな君、ドキドキしてるね?」
そりゃするだろ、命の危機を感じれば誰だって。
「ごめんね? つい、嬉しくなっちゃって」
そう言って、申し訳なさそうにしながらも、こらえきれないみたいに笑顔を浮かべる小さな彼女に、俺は何も言えなくなって、頭をポンポン、と軽くなでた。
「――で、なんだって?」
しばらくバカみたいに抱き合っていった俺たちだったが、沸騰する鍋の音で我に返ると、止まっていた時間が流れ始めたみたいに動き出した。
まずは火を止め、息をつく。それから状況整理。
「雪! 雪だよ! 雪!」
ひなたは、窓の外を指さして、雪という単語を連呼している。あふれ出るわくわくが彼女の足を動かすのか、謎にその場で足踏みしながら、後ろでくくった髪をゆらしている。その様はまるで、しっぽをふりふりする犬のようだ。
いーぬはよろこび庭駆け回り、だったか。日本人なら誰でも知っている冬の歌に、そんな歌詞があったような。……どうやら駆け回りたがるのは人間もだったらしい。
俺は、ひなたが指す小窓の外を眺めてみた。冷たい外気が顔に触れる。外はもうすっかり暗くなっていたが、家の前にある街灯のあたりを見ると、雨ではない白いものが降り注いでいるのが見えた。
なるほど、どうりで今日は一段と廊下が冷えると思った。まさか雪が降るほどだったとは。どうせ一日家にいるからと、天気予報を見ていなかったので知らなかった。一時的なのだろうか、それとも、積もるほど降るのだろうか。雪かきが必要なくらい降られると面倒くさいな、などと、明日以降の未来に思いを馳せたところで視線を窓から戻す。
我が家のわんちゃんは、すでにもこもこのコートを着て待機していた。今すぐ外に飛び出したいと顔に書いてある。
できることなら、俺はこたつで丸くなっていたいんだが……。
「――この切りかけのネギはどうする?」
「うっ!」
「ついうっかり沸騰させちまったみそ汁は?」
「それはっ!」
「魚も焼いてる途中じゃなかったっけ?」
「うぅっ!」
俺の言葉をひとつ受けるたびに、表情を暗くしていくひなた。追加するなら、炊飯器の中には炊き込みご飯だって控えている。美味しい冬の和食セットは、絶対にできたてで食べるのが美味いはずで、どう考えても、ここで外に出るという選択肢はない。
……はあ。
「……その辺を一周だけな」
「いいのっ!?」
良いも悪いも、それしかないだろ、そんな顔されたら。
俺は、ひなたが持ってきてくれたコートを着込みながら、寒い寒い外へと向かうことにした。
「雪だ!」
玄関を開けると、案の定、容赦ない冷気が俺を襲った。思わず体を曲げ、コートについているフードで頭と耳を覆い、防御姿勢になる猫の俺。一方、犬のほうはと言うと、同じ冷気を浴びているとは思えないほどの満開の笑みで、両手を広げ、全身で雪を受け止めるようにしながら、夜空を見上げている。
俺もつられて空を見た。当然だが、星空は見えない。
「冷てっ!」
顔面に雪があたって、見上げたことを後悔する。袖でぬぐいながら、はしゃぐひなたの後をついていった。
浮かれている彼女を目の端に起きつつ、周囲を警戒する。幸い、こんな雪の中を好んで外出するやつは少ないようで、人通りも車通りも、いつもより少ないように見えた。脇道にそれると、それはより顕著になって、ほとんど自由に歩くことができるようになった。
「きゃっ!?」
「油断大敵。積もってなくても滑るところは滑るぞ」
「えへへ……そうみたい。ありがと、やな君」
俺は、マンホールに足をとられて転びそうになった彼女を支えたりしながら、一緒になって歩いた。
しばらく歩くと、公園についた。一応公園と呼んではいるが、遊具らしい遊具の姿はなく、だだっ広い空地みたいになっているところだ。よく見れば、かつて遊具があったような痕跡はあって、それがなんだか、寂しさを増長させる。
だが、うちのひなたが嬉しそうに駆けていくのを見ると、こんな場所でさえ、俺たちだけの特別なスポットのように思えた。広場の中央に立ち、何が楽しいのかくるくると回る彼女は、空舞う雪たちと、一緒になって遊んでいるかのようだった。
「転ぶなよ」
一応注意はしておくが、普段から頑張る彼女が、この程度でふらついて転ぶような鍛え方はしていないことを、俺は知っていた。
「――ギター、持ってくれば良かったね」
やがて、回ることやめた彼女はぽつりと言った。
「弾きたくなってきちゃった」
俺はそんな彼女の手を握る。氷のような冷たさが伝わってきた。
「……こんな中じゃ、手がかじかんで厳しいだろ。めちゃくちゃ冷えてるぞ」
「ううん、大丈夫。雪の中で歌うの、得意だもん。知ってるでしょ?」
「伝説の路上ライブ復活か? 人がいないから大丈夫だと思うが、万が一バレたら大騒ぎになる。十年前とは違うんだぞ」
「そんなことないよ。……何も変わってない」
ひなたは、俺の手を振りほどくと、胸の前で手を組んだ。そしてそのまま、「あの歌」を歌う。
瞬間、ただの広場は、彼女のためのステージとなった。どこまでも透き通った歌声は氷のように澄んでいて、まるでこの声が、天まで届いてこの雪を降らせているかのようだ。だが、俺の背筋を駆け上がってくるこの感覚は、間違いなく、寒さのせいではない。
「”YUKI”……」
俺は思わず、その名で彼女を呼ぶ。本名とは真逆の、彼女のもうひとつの姿。
どこまでも綺麗で、静かに降りそそぐ声から名付けた、”雪原の歌姫”の名を。
――やがて歌い切った”ひなた”は、よく知っている満面の笑みを浮かべる。
「私が大好きな歌を歌って、みんながそれを聴いてくれて、”柳君”が支えてくれる。何も変わってないよ。積み重ねてきただけ。歩いてきただけ。いろいろなことがあってライブはできなくなったけど、それでもこの道はなくならなかった。……みんなと一緒に、歩いてこれた。だから、この曲ができた」
そうして彼女は、再び俺の手を取って、宣言するのだった。
「今度のライブは絶対に成功させるよ、やな君。久しぶりに、みんなの笑顔が見たい」
「――ああ。みんなも待ってるはずだ」
俺は、マネージャーの柳として、強くうなずくのだった。
「――で、ライブが成功したら、結婚してね、やな君」
「……死亡フラグにならなきゃな」
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本作は、朗読、ラジオドラマにご活用いただけるシナリオとして、「HEARシナリオ部」の活動内で作成いたしました。
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○クレジット
シナリオ作者:柚坂明都(ふぁいん) https://hear.jp/finevoices
シナリオ引用元:それはまるで大空のような https://fineblogs213.com/those-that-do-not-change/
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