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「充実」とは、満ち足りていること。
そして「豊か」なこと。
……もし仮に、あなたが日々に追われ、疲弊しているなら。
詰め込んだスケジュールに、時折立ち止まりたくなる思いを感じたことがあるなら。
あなたには「余白」が必要かもしれません。
――そんなあなたには、この言葉を送りましょう。
「モモのところに行ってごらん!」
あなたは「モモ」を知っていますか
2025年12月13日。
神奈川県藤沢市、藤沢市民会館大ホールで、とある舞台が公開されました。
それは単なる演劇でも、ミュージカルでも、あるいは演奏会でもなく、それでいて、そのどれでもある舞台。
「戯曲音劇」と名付けられたそれは、管弦楽団によるクラシックと、実力派の声優・俳優陣による朗読劇を組み合わせた新ジャンルの舞台でした。
「言葉がオーケストラの旋律をまとう時、物語は歌になる――」
そう標榜する舞台は、今回が6作品目。
「セロ弾きのゴーシュ」
「星の王子さま」
「竹取物語」
「ロミオとジュリエット」
「銀河鉄道の夜」
に続き、今回の題材に選ばれたのは――「モモ」。
ドイツの児童文学作家「ミヒャエル・エンデ」が1973年に生み出した作品で、原題は「Momo oder Die seltsame Geschichte von den Zeit-Dieben und von dem Kind, das den Menschen die gestohlene Zeit zurückbrachte(モモ 時間どろぼうと、盗まれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子のふしぎな物語)」といい、日本では単に「モモ」の名で、1976年に岩波書店から出版されています。
その後、2005年に岩波少年文庫から新装丁で出版されるにあたり、時代による語彙の変化を鑑みて内容を一部修正。現在ではこれが、日本で最も多く読まれている「モモ」と言って良いでしょう。新装丁から数えても20年、日本語版の発売から考えると50年、読み継がれている作品、ということになります。いわゆる「名作」ですね。
はてさて、そんな名作である「モモ」を、あなたは知っているでしょうか。
読んだことがありますか?
……もしあるならば、遠慮無く私(筆者)を笑ってください。残念ながら私は33歳を迎えた現在まで、全く触れたことがありませんでした。
これでも小・中学時代はそこそこ読書家だったのですが、ミヒャエル・エンデという作家の名すら、恥ずかしながら今回初めて知りました。学校の授業でもやった記憶はなく、教室に置いてあった学級文庫のラインナップを思い返してみても、そこにその名はなかったと思います。誰かが読んでいた覚えも、タイトルを耳にした記憶すらありません。
これは、私が無知なのでしょうか。
どうにも私にはこの「モモ」だけ、知名度が一段階落ちるような気がしています。なぜなら、過去に「戯曲音劇」の題材となった他5作品は、自ら手に取った覚えはないにも関わらず、授業などで触れたことがあるのですから。
そこで今回は、戯曲音劇「モモ」の感想の前に、原作である岩波少年文庫版の「モモ」について、触れておきたいと思います。
「モモ」導入
舞台は、おそらくエンデがこの作品を書いていた1900年代半ばの、西洋のどこか。
発展する都市の中心部と、そこから外れた郊外の格差が、少しずつ浮き彫りになり始めた頃。
人もまばらな、町外れの古い円形劇場跡に、あるとき一人の少女がやってきました。
かの有名なローマのコロッセオをもっともっと小さく、ぼろぼろにしたようなその空き地に、同じくらいぼろぼろで、髪もぼさぼさ、痩せた風貌の少女は住み着きます。
名前はモモ。年の頃は8つとも12ともとれるその少女は、学はなく、親もなく、大した物も持たず、年齢を聞いても数が分からないので答えられません。
近所に住む大人たちはそんな彼女を心配して、力をあわせて面倒を見ることにしました。彼らも決して裕福ではありませんでしたが、代わりに心が豊かだったのです。
大人たちと、その子供たちは、家具を運び、食べ物を与え、モモと一緒に生活するようになりました。
モモがやってきてどれくらいの時が経ったか、そのうちに彼らはモモの持っている不思議な力に気付き始めました。
と言ってもそれは、魔法のような能力ではありません。分かりやすい特技でもありません。
モモはただ、人の話を聞くのがとても上手でした。
ただ黙って、相づちをうち、ときに簡単な返事をするだけ。けれども、一生懸命に話を聞いてくれる彼女と話をしていると、不思議と話し手の悩みは小さくなり、気分は明るく、前向きになりました。
彼女の瞳はどこか鏡のようで、彼女と話をすることで、自分自身の心を自分で覗き、何が問題だったのか、どうすればいいのか、不思議と分かるようになったのです。
それは、子供たちにとってもそうでした。
子供たちは、大人たちのように悩むことはそう多くありませんでしたが、代わりにモモといることで、なぜだか次々に、楽しい遊びを思いつくことができました。
彼らは、車の模型やお人形なんて持っていませんでしたが、代わりに木の枝やボロ布、石ころなんかで十分遊ぶことができたのです。彼らにかかれば、木の枝は剣に、ボロ布は豪華なドレスに、石ころは宝石になりました。「想像力」が彼らの遊び道具だったのです。
そのためモモの周りには、大人も子供も、たくさんの人がやってくるようになりました。それくらい、モモには不思議な魅力がありました。そのうちに、いつしか彼らの間では、困ったときに神頼みをするように、
「モモのところに行ってごらん!」
と言うのが定番になっていったのです。モモは、みんなの友達でした。
しかしあるときから、そんな彼らの日常に変化が訪れます。それは、ほんの少しずつ、しかし確実に、変わっていきました。
よく顔を見せていた大人たちがひとり、またひとりとモモのところに来なくなったのです。
それどころか、時折見かけていた観光客や、街の人の姿も見なくなっていきます。
子供たちはしばらくの間普通に遊んでいましたが、やがてそれも減っていき、モモの周りから、人がいなくなってしまいました。
最後に残ったのは、モモの親友である道路掃除夫のベッポ、そして観光ガイドのジジだけ。
ベッポは言葉少なく、じっくり考え、ゆっくりしゃべるおじいさん。
ジジは口先八丁、ペラペラとよくしゃべり、あることないことをまじえた物語を語っては人を楽しませるお調子者の若者。
対照的なふたりでしたが、彼らはモモにとって、特別好きな友達でした。
彼らはモモに言いました。
「どうしてみんなが来なくなったのか、聞きにいこう」
そうして調べ回るうちに、彼らは気付きます。
どうしてかは分かりませんが、どうにもみんなは忙しくなったらしい、ということに。
腕がよく、誇りとこだわりをもって仕事をする職人だったニコラは、今ではすっかり速さだけを求めて、できるだけ効率的に、ちゃっちゃと仕事するようになっていました。
居酒屋を営むニノは、たった1杯の酒で長いこと居座る昔からの常連客を店から追い出し、もっと金持ちの客を呼ぼうと躍起になっていました。
髪を切りながら客としゃべるのを楽しみにしていた床屋のフージーは、今では黙って、ただ一秒でも早く、一人でも多く、人の髪を切るようになっていました。
確かにそれで、以前よりもお金は稼げるようになったかもしれません。
しかしそんな彼らはどこか、イライラして、疲弊して、ピリピリした雰囲気をまとうようになっていました。
彼らは仕事に追われ、モモのところにくる余裕など、すっかりなくしていたのです。
同じようなことが、町中で起こっていました。いつの間にか、誰も彼もが1分に追われ、1秒を節約するように生きています。少しまごつけば「早くしろ」と怒鳴り、口を開けば「時間がない」と言いました。そして、そんな彼らはモモや、ベッポや、ジジのことを、
「時間をむだにしている人」
と言いました。彼らの目には、円形劇場でおしゃべりしている3人が、時間を浪費しているだけの人間に見えたのです。だからこそ彼らは、自分の子供に言いました。
あの人たちと遊んではいけない、あの人たちのようになってはいけない
と。
モモはそんな彼らを心配しました。疲れ果てた顔をしている彼らのもとにいき、懸命に彼らと話をします。彼らの心の扉を叩いて、彼らの事情に一生懸命耳を傾けました。
すると彼らは、最初こそ「そんな暇が無いんだ」といった様子でしたが、次第に心を開き、顔つきも少し穏やかになって、最後にはこう約束してくれました。
「また近いうち、必ず、モモのところに行くよ」
モモは喜び、円形劇場へと帰りましたが……しかしそれを、陰から監視している者がいました。
全身灰色ずくめの、灰色の男たちです。
彼らはひそかに、こう思いました。
「我らの目的に、あの少女は邪魔だ」と。
ここから、モモと灰色の男たちの戦いが始まりました。
「モモ」要約
以上が「モモ」の導入部分、物語の入り口です。一部、省略してお伝えするために私なりの表現をしてしまった部分はありますが、概ね原作通り。ともかく「モモ」という作品は、失われてしまった日常を取り戻すため、灰色の男たちを相手に少女・モモが奮闘する物語となっています。
では、灰色の男たちとは何者なのか。
厳密に説明してしまうとネタバレになりますので、ここでは「時間貯蓄銀行の銀行員」と紹介しておきます。彼らは灰色の車に乗り、灰色の背広に灰色の帽子、書類鞄をもって、町の人々に声をかけます。そうして巧みな話術で、彼らに「時間の貯蓄」を勧めるのです。
何をするにも時間は大切だ、節約して貯蓄しておこう、そうすれば将来、利子をつけてお返ししますよ、と。
それを承諾した人々は、日常からあらゆる無駄を排除し、隙間時間という隙間時間を銀行に預けるようになります。無駄を省くこと、効率よく過ごすことが幸せに繋がると信じて、そう行動するのです。
しかしそれは、灰色の男たちによる罠でした。
灰色の男たちは、そうして吸い上げた人々の時間を自分達の糧とし、生きながらえていたのです。
時間を盗まれた人々は、体力的にも精神的にも、疲弊し、余裕を失っていきます。
そんな彼ら……「友達」をどう救うのか。それが、この「モモ」という物語です。
戯曲音劇「モモ」感想
「モモ」の物語は、岩波少年文庫版だとおよそ400ページのボリュームがあります。しかしながら、対象年齢が小学5、6年生ということもあって、ひらがなが多めに使われている節もあり、実質的にはもう少し文字数は少ないでしょう。
とはいえ、それなりのボリュームです。戯曲音劇に備えてこの物語を最後まで読み終えたとき、様々な感想とともに、当然ながら「これをどう脚本に落とし込むのか」という好奇心が胸の内に生じました。
さすがに全てをやりきるには、1、2時間では足りないでしょう。しかし戯曲音劇は昼と夜、1公演ずつやることが分かっていましたから、どう見積もっても使えるのは2時間程度です。
果たして何を削り、どう再構築して劇にするのか。
自身が物書きをしていることもありますので、ぜひ注目したいポイントのひとつとして、わくわくしながら劇場へと足を運びました。
ここからはそれも踏まえて、戯曲音劇「モモ」の感想をお伝えします。
舞台体験として素晴らしい
戯曲音劇「モモ」は、舞台で体験できる様々な要素を併せ持った、とても華やかな舞台でした。
生のオーケストラによる、弦、管楽器の旋律
クラシック歌手の皆さんによる本物、その場限りの歌唱
そして主演・南條愛乃をはじめとする豪華声優、俳優陣による生朗読
声優、俳優自身による歌唱もあってミュージカル的な要素もあり、もちろん、セリフのひとつひとつには表情や動作も伴いますから、本当に一度で何度も美味しい舞台となっていました。
これまで私も、舞台でのお芝居やオーケストラコンサート、朗読劇などをそれぞれ観たことはありましたが、全部が入り混じった舞台というのは新鮮で、非常に良い体験をさせていただきました。
配信で観ようか迷ったところもあったのですが、現地で観て正解。少々お高いお金を出してプレミアムシート(劇場前方席)で観たのも正解でした。演者、奏者の表情込みで楽しむことができました。
生ゆえの緊張感がある
生の演奏、生の朗読だからこそ感じる緊張感もまた、一つの醍醐味だったと思います。
舞台上に立っているのはもちろん全員がプロなわけですが、やはり全くのノーミスというわけにはいきません。
特に朗読は、素人が聞いても一瞬で分かる部分ですから、正直「あ、噛んだ」と思ったところもありました。
でもそれもまた良きもの。そういう「ライブ感」も含めて、1回限りだからこその尊さが舞台上にありました。
噛んだのを見て内心「頑張れ!」と思う。
そんな体験が、あの会場に一体感をもたらしていたように思います。
脚本だけは……
そんな素晴らしい舞台だった戯曲音劇「モモ」なのですが、個人的に脚本だけは、少々思うところがありました。
前述したとおり、物書きとして、非常に楽しみにしていた部分。だからこそでしょうか、正直言って「悪い」寄りの出来だったのではないかなと個人的には思ってしまいました。
これは、事前に原作を読んでいたことも大いに関わります。また、「モモの知名度はさほど高くないのではないか」と思っているところにも繋がります。一言でまとめてしまえば、
「結局どういう話なんだ、これ」
と思う出来になってしまっていたのではないかな、というのが所感です。
劇が始まってすぐ思ったのですが、想像以上に全てが薄味になっていました。
人を惹きつけるモモの魅力も、
モモを中心に集まる人の温かさも、
ベッポやジジといったキャラクターの個性も、
「灰色の男」の不気味さも、
全部が全部駆け足で、薄味でした。
もちろん、ある程度は予期できたことです。前述したとおり、400ページの物語を2時間ぽっち(実際には1時間半ほどでした)の舞台で表現しきるのは不可能ですから、省略・簡略化されるのは当然です。でも、素人ながら、その方法が良くなかったんじゃないかなあと思いました。
問題点はたったひとつ。
「簡略化しながらも全部描こうとしたこと」
だと思います。
山場が必要だったのでは
今回、台本がパンフレットと一緒に販売されていた他、プレミアムシート購入者には標準でついてくるということもあって、帰宅してから台本を一通り読むことができました。
その際に驚いたのはその「薄さ」。内容ではなく物理的な話で、なんと22ページしかありませんでした。B5サイズで2段組ですが、行間はしっかり空けてあってびっちり詰まっているわけでもないことを考えると、思いのほか文字数は少ないように思います。
かつて行った別の朗読劇と比べても、圧倒的に少ない文字数。しかしながら、今回は「戯曲音劇」ゆえに、演奏もあれば歌唱もあるわけで、となればセリフがここまで減るのも納得ではありました。
問題は、これだけ少ない文字数で、モモの400ページ全てを描こうとしたこと。もちろんばっさり割愛されているシーンは多いにせよ、頭から最後まで、順を追って描いてしまった。
これが問題だったのだろうな、と思いました。
尺的にこれしか文字数が使えないのであれば、もっと大胆に構成を変更するほうが良かったのではないかと個人的には思います。素人意見ですが、人々がギスギスしているシーンから始めてしまう、とか、そういうレベルの改変が必要だったのではないでしょうか。
それはそれで原作ファンから怒られそうではあるのですが、それをしなかったことで、物語としては味のしない舞台になってしまっていたように思いました。なぜなら「味の濃いところがないから」です。
私が思うに「モモ」のエッセンスを抽出すると、それは「人の温かさ」になると思います。
金銭的には貧しくとも、人を思いやる心を持ち、会話を楽しむゆとりを持ち、年齢に関係なく仲良くなって、みんなで楽しく暮らす。
そんな温かさをかけがえのないものとして描き、それを「時間」と共に奪い去るからこそ、その犯人である「灰色の男」への恐怖、絶望感が冷たく押し寄せてくるのです。その落差が必要なのです。
それが、今回の台本にはなかったように思います。山に登ることがなく、ただ決められた平地のコースをスタートからゴールまで駆け抜けてしまった。無理矢理短くしたショートコースをダッシュで通り過ぎてしまった。
ゆえに薄くなり、感情移入する間もなく過ぎ去り、人の温もりはほんのりとしか感じられず、結果として絶望感もない――最初から最後までどこにも気持ちを寄せられぬまま、まさしく我々観客は第三者として、「モモ」という物語のほんの表面だけをなぞり、なんとなく「えーとつまり、とりあえず敵を倒したってこと?」と思って終わる。
そんなストーリーになっていたなと思いました。
これが、例えば「桃太郎」のように、説明不要なレベルまで知名度が高ければ問題なかったと思うんですけどね。
知らない人からすれば、今何やってるのかよく分からない、どこを楽しめばいいのか分からない、とりあえず演奏とか楽しみながら見てたら敵を倒して終わった、くらいだったんじゃないかなあと考えています。
繰り返しますが良い舞台でした
とまあ脚本に関しては全く納得いっていないわけなのですが、それはある意味「私が原作を味わった直後だったから」だったとも言えます。
名作の名作たる所以を感じたその後に簡略化されたものを観たのですから、それは物足りなくもなるだろうと思いますので、それを脚本家の方にぶつけるのは酷というものでしょう。
私自身物書きですので、短くすることの難しさは身に染みて知っています。尺に制限がある中で、原作の世界観を崩さないように再構築するなどというのは「縛りプレイ」に他なりませんので、極めて難しいもの。
「戯曲音劇」であるということを踏まえれば、素晴らしい演奏や演技で楽しい舞台体験ができたことだけで十分に価値があり、脚本にとやかく言うのは私のような「何においてもストーリーを最も重視してしまう人種」だけでしょうから、細かいことは考えず感動した方々もたくさんいると思います。
私も物書きであることを忘れて、単純な「南條愛乃ファン」として見れば、十分満足できる舞台でした。
「うんうん」と頷いている少女の演技は可愛すぎたし。レアな「セリフを歌う」ところも見られたし。舞台上でモモを体現する演技力に感動したし。
本当に舞台体験として、とても良い時間だったと思います。
声優ファンとしても、梶裕貴さんや下野紘さん、村瀬歩さんといった超有名声優さんが見られたのにはテンション上がりましたしね笑
というわけで、私としても「戯曲音劇」そのものはまた行きたいなと思っています。できればもう少し近場でやってほしいんですが、実は2026年3月16日に、今度は埼玉県越谷市で「銀河鉄道の夜」を再演するらしいので、どうしようか迷っています。
また微妙に行きづらいんだよなあ……笑
すでにチケットは販売しているようですので、ご興味ある方はチェックしてみてくださいね。
おまけ:「モモ」自体の感想を少しだけ
今回、戯曲音劇「モモ」をきっかけに原作小説「モモ」を読もうと決めたとき、正直なところ、児童小説だと少しなめていた私がいました。
きっと何かしら教訓めいたことが書いてあるのだろう、とは思いましたが、まさかここまで自分に響くとは思っていなかったのです。何しろ、11、12歳向けの本ですからね。33歳に刺さるなんて思ってもみませんでした笑
しかしながらひとたび「モモ」の世界に足を踏み入れると、そこに描かれていたのはまさに現代の大人たちでした。いつも何かに追われ、起きている間、時間の限り何かをやっている。
1973年に書かれたとは到底思えないほど、深く、深く刺してくるテーマに驚きました。
思えば、なぜ我々は常にスマホを眺めているのでしょうか。
そんなに四六時中、ニュースを見なければならない理由があるでしょうか。
ゲームや漫画は面白いですが、我々はどこかそれを「消費」していないでしょうか。
取り入れたその「面白さ」は、次の瞬間には泡と消え、何も残っていないのではないでしょうか。
……私はこの本を読んだ後、子供の頃、なんてことない空き箱を引き出しいっぱいになるまで集めていたことを思い出しました。
幼い私は、小さな箱、長細い箱、薄い箱、厚い箱……集めたそれらが引き出しに隙間無く収まるように、出してはしまい、出してはしまい、組み合わせを試行錯誤しては、綺麗に収めて悦に入っていました。
思い返すと、なんて無駄な時間でしょうか。空き箱のせいで収納スペースが埋まるので、そういう意味でも無駄です。
でも、その頃の私にとって、集めた空き箱は間違いなく宝物でした。綺麗に納めることが、この上なく快感でした。その行為は、間違いなく楽しかったのです。こうして20年以上経った今も、はっきりと覚えているくらいに。
……そのことに「モモ」が気付かせてくれました。
今では、たくさん読んでいるはずの異世界転生漫画のストーリーを、大して覚えていません。
昔インストールしていたはずのアプリの名前を、もう覚えていません。
昨日読んだニュース記事の記憶すら曖昧です。
一体現代の私たちは、何に時間を費やしているのでしょうか。
時間どろぼうは、どこにいるのでしょうか。
――そう考えさせる力が、「モモ」という作品にはありました。そして考えさせられている時点で「モモ」は間違いなく名作です。そうやって人の心に残り続けるからこそ、廃れずに今も売られているのですから。
ありきたりではありますが、現代を生きる大人こそ読むべきだと思います。
そして良ければ、一度問いかけてみてください。
自分が本当にしたいことは、何なのかを。
あなたの心にいる「モモ」に。


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