迷ってへたれて抱きしめて② #9

「じゃあ、あの、私、自分の部屋に戻るね」
 その後、何となく部屋に流れる気まずい空気に耐えかねたのか、あの那都葉が自ら進んで僕の部屋から出ていった。
 
 こんなことは僕の記憶にある限り初めての出来事だが、そのことを驚いたり喜んだりする心の余裕はすでに僕にはなく、
「あ、ああ」
 短くそう返答することしかできなかった。
 
 そして僕は、琉未ちゃんと二人、部屋に残されたわけだが……
「……」
 さっきの今で二人きりにされると、何を話せばいいのか分からなくて言葉に困った。
 
 琉未ちゃんも、すっかり元の調子に戻ってしまい、俯いてもじもじしている。
 
 ああやって僕を叱ったのは、よっぽど勇気を振り絞っての行動だったのかもしれない。
 
 ……そうだとすれば、本当にあの瞬間は貴重だったことになるな。
 
 変態性を見せない真面目な那都葉と、年上の人に説教する琉未ちゃん。
 
 もう二度と見られないかもしれないぞ、あれは。
「ん……?」
 などと、しゃべることを放棄して僕が思考にふけっていると、琉未ちゃんが動きを見せた。
 
 肩からずっとかけっぱなしだった凪未ちゃんとおそろいの鞄から、何かを取り出したのだ。
 
 それは、手のひらに収まるサイズの文庫本だった。もちろん、この場合の手のひらは琉未ちゃんのではなく、僕のである。
 
 タイトルから察するに、それは、僕も昔読んだことがあるような児童向けの小説のようだった。
 
 ――だからこそ驚く。
「え、琉未ちゃん、字、読めるの?」
 その本が、子ども向けとはいえ、小学校高学年くらいの子が読むような本だと分かったからだ。
 
 五歳児にはまだ到底理解できる内容だとは思えないし、そもそも小学校にも上がっていない子どもには読めないだろうと思えた。何しろ、ひらがなどころか漢字も含まれているだろう本なのだ。
 
 だが、琉未ちゃんは僕の問いに、あっさり頷いた。
 
 どうやら、読めてしまうらしい。
 
 覗き込んでみると、なるほど、ルビのない漢字にも手書きできちんとルビが振ってあった。おそらくおばさんが手作業で書いたのだろうが、たとえそうだとしても、やはり驚きである。
 
 なぜなら、
「面白い?」
 そう尋ねてみると、それにも頷いたからだった。
 
 つまり、琉未ちゃんはきちんと物語を楽しんでいるのだ。通常、十一、二歳の子が楽しむような本を、五歳で。
 
 あまり質問をして邪魔をしては悪いので、しばらく黙って見ていたのだが、琉未ちゃんは黙々と、そしてすらすらと、本を読み進めているようだった。
 
 僕は単純に感心してしまう。
 
 と、感心ついでに、そういえば琉未ちゃんが、床に座って読書をしていることに思い至る。
「……床は固くない? なんなら、こっち来る?」
 自分は柔らかいベッドに腰掛けているくせに小さな子を床に座らせているのもどうかと思ったので、試しにそう呼びかけてみると、
 とことことこ。ぽふっ。
 
 琉未ちゃんは無言で僕の脚の間に座って、再び読書を始めた。
 
 ……なぜあえてそこに座ったのかは分からない。
 
 が、琉未ちゃんがそこに収まった瞬間、なんというか少しだけ、きゅんとした。
 
 ああ、この子可愛いぞと思ってしまったのである。
 
 心をなかなか開かない子に気をゆるしてもらえた喜びが体を走ったとでも言い換えられるかもしれない。
 
 要は、僕は嬉しかった。懐いてもらえたような気がして。
 
 琉未ちゃんは、まるで人形のように、じっと止まったまま静かに本を読み続けていた。動くのは、ページをめくるときの手くらいだ。
 
 そんなわけで、僕も黙って琉未ちゃんの椅子役に徹しつつ、手持無沙汰なので携帯でネットの記事などを読んで過ごした。誰も何もしゃべらない、無音の時間が続いていく。だがそれが、何となく心地よかった。
 
 それが数十分ほど続いた頃……。
 
 ネットの記事にも飽きた僕は、ぼんやりと琉未ちゃんを見ていて、ふとあることを思いついた。
 
 急なことなので都合がつくかは分からなかったのだが、ものは試しにメールを作ってみることにする。
 
 相手は月野さん。
 
 それこそ、以前出かけたとき以来の連絡になるので少し緊張したが、今回は伝えたい内容がはっきりしているということもあってか、メールの本文はすぐに浮かんだ。
  
『お久しぶりです。唐突なのですが、明日の予定は開いていますか? 実は、前に行ったこども図書館にまた行きたいなと思っているのですが、良ければ一緒に行きませんか』
 あまり長々とした文章になっては読むのも大変だろうと思い、短く、要点だけをまとめて送信ボタンを押す。
 
 僕が思いついたのは、琉未ちゃんをこども図書館に連れていくことだった。これだけ本が好きなら、きっと喜んでもらえるのではないかと思ったのだ。
 
 特に琉未ちゃんは、凪未ちゃんと違って、この家にいるとなかなかリラックスできなさそうだからな。外に出るのは多分良いことだと思う。
 
 外に出て、好きな本に囲まれた環境へと連れて行ってやれば、人見知りの琉未ちゃんにもきっと楽しんでもらえるに違いない。
 
 月野さんからの返答はとても速かった。
  
『お誘い嬉しいです。予定は大丈夫なので、明日、楽しみにしています。こども図書館は九時から開いていますが、何時から向かいますか。私は何時でも大丈夫です』
 月野さんらしい、落ち着きと上品さを感じさせる文章だった。まあ、そう感じるのは月野さんのあの育ちの良さそうな美少女っぷりを知っているからかもしれないが、それはともかくとして、大丈夫だったようなので嬉しく思う。
 
 月野さんは司書を目指していると言っていた。それに、よくあの図書館に行っているとのことだったから、あの図書館にある本についても詳しいだろう。そんな彼女なら、きっと琉未ちゃんの良い相手役になってくれると僕は踏んでいた。だからこそ呼んでみたのだ。
 
 僕は早速、お礼とともに時間の指定をして返信した。了承のメールはまたもやすぐに返ってきて、これにて明日の予定が確定する。
 
 十一時にこども図書館。
 
 ……予定が明確になった途端、琉未ちゃんのための企画とはいえ、なんだか僕自身も少しわくわくしてきたな。
「琉未ちゃん、明日は図書館に行くぞ!」
 ついついテンションが上がった僕が、那都葉にたまにやってやる癖で琉未ちゃんの頭をなでると、
「ひゃあっ」
 急なことにびっくりしたのか、琉未ちゃんは小さく声を挙げたのだった。
 
 ――これは僕が悪いな。今まで沈黙が続いていたところを、急に声を出して、しかもいきなりなでたのだから。
(#10へ続く)
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