迷ってへたれて抱きしめて #1

 ――多分、ここまで先生に感謝したのは、中学生活を三年間過ごしてきて初めてじゃないだろうか。
 シャーペンの音がはっきりと聞こえるくらいに、教室の中は静かだった。少し気まずいが、それ以上に幸せな時間が流れている。
「寒いね、ここ」
 彼女がふと手を止めてそう言うまで、教室の寒さすら忘れていた。
 兎束(うづか)さんはブレザーの下に着たカーディガンの袖を伸ばして、手を半分ほど寒さから守る。それでも指先は冷えるのか、シャーペンを置いて手をこすり合わせた。
「て、手袋でもして書いたら?」
 ありったけの思考力を使って、考えに考えてそう言ってみた。
 でも、
「うーん……それじゃ書きにくいかな」
 そんな一言であえなく却下。
 代わりに書くよと言えば良かったことに、今更気付いた。僕の手は、こんなに暖かいから。
 血の巡りが良いのは心臓が早く動いているからで、心臓が早く動いているのは、緊張のせいだ。
 彼女と二人きりでいること。そして、多分チャンスだということ。それが僕を緊張させる。
 ドキドキさせる。
 徐々に日が長くなってはきているものの、まだ日が落ちるのはわりと早い。他の生徒は部活動に出ているか、さっさと帰ってしまったかだ。僕たち以外の生徒がこの教室に来ることはない。先生も、職員会議があると言っていた。
 邪魔者はいない。来ない。
 たまたまちょっとした雑用があった日に、たまたま僕たちが日直だった奇跡。
 僕はたまたま兎束さんが好きで、卒業を前にたまたま告白しようか悩んでいるところだったから、丁度良かった。これ以上なく。
 兎束さんはまた日誌を書く作業に戻った。だから僕もまた、書いている兎束さんを見守る作業に戻る。頼まれたアンケート結果の集計はとっくに終わっていった。日誌は、一日の終わりにその日の記録をつける日直の元からの仕事だ。
 僕は授業が終わる度に、休み時間に黒板を消す仕事をする。兎束さんは日誌を書く。そういう役割分担が自然とできていた。
 理由は簡単だ。僕の方が背が高いから、黒板の上のほうまで消しやすい。兎束さんの方が字が上手いから、日誌が綺麗に書ける。
 集計が終わった後に、日誌書くのは私の仕事だから帰って良いよと言われた。でも僕は、ここまでいたんだしどうせなら終わるまでいるよと食い下がった。
 彼女は、本当に良いのに、と言ってから、秋本君優しいねと言ってくれた。
 それがこの上なく嬉しくて、自信にもなった。
 だから、言う決心をしたんだ。
 彼女が日誌を書き終えるのを、じっと待つ。
 時間の流れが、長いようにも、短いようにも感じられた。
 告げるなら早く告げてしまいたいという気持ちと、まだ書き終わらないでくれという気持ちが入り混じった。
 そしてようやく、彼女がシャーペンを置いて、ふう、と息をついた。
「ごめんね秋本君、長いこと待たせちゃって」
 
 兎束さんの口から最初に出たのは、疲れたとか、やっと終わったとかではなくて、僕への気遣いだった。
 そういうところが好きなのだ。
 いや、全部好き。
 口を開きかけて、思わず気持ちがフライングして出てしまいそうになって、一度つぐんだ。一度飲み込んでから、改めて開く。
「お疲れ」
「うん、ありがとう」
 
 彼女は疲れを見せず笑った。
 
 可愛い。
 ついに、その時がやってきた。
「じゃ、先生に渡してくるよ。秋本君も早く帰りたいよね」
「――ちょっと待って」
 
 立ち上がった彼女を、僕は呼び止めた。
「ん? どしたの?」
 
 不思議そうにこちらを見る彼女を見つめ返して、言う。
「実は、さ。……ずっと、好きだったんだ。兎束さんのこと」
 自分の声がやけに大きく響いた気がして、少し焦った。
 彼女の表情は、驚きに変わっている。そりゃそうだ、いきなり何の前触れもなく告白されたのだから。
 見開いた目、少し開いた口。彼女の表情が細部まで見えた。沈黙は恐ろしく、いたたまれなく、そして長かった。
 やがて彼女は、笑顔になった。
「は? え、ちょ、何言ってんの? 有り得ないんだけど? ちょー笑える」
   1
 ――身を翻した彼女を追いかけて、何かに躓いて転んだ
「いってぇ!!」
 ……ところで目が覚めた。
 三月頭の冷え切った室内で、冷たい床に背中を打った。ベッドから落ちたのだ。ただし、この目ににじむ涙は痛みのせいだけではない気がする。
 見事な夢オチ。そしてベッドからの「夢落ち」。背中も心もちょっぴりじんじんする、良いか悪いかで言えば悪い部類に入る目覚め。
「さむ……」
 ベッドという寒さからの守護神から見放された僕に(自分で落ちたのだが)、冷気が容赦なく襲ってきた。いつまでも床に転がっているのは間抜けの極みなので、体を起こした。幸か不幸か、目はばっちり覚めている。
 体のみならず心もまた、少しばかり寒いのが辛かった。
 それにしてもやけにリアルな夢だったと思い返す。最後の最後、フラれる恐怖からきたのかもしれない兎束さんの強烈なキャラ崩壊は別として、季節も学年も、そして僕が彼女の事を好きだという事も、何もかもが現実と同じ。
「まさか正夢に……いやいやいや!」
 
 恐ろしすぎる想像は首を振って振り払った。
 告白する前からそんな弱気では駄目に決まってる。それに、もし……だったとしても、兎束さんはあんなひどいことは言わない。
「というか俺、自分の夢の中ですら失恋するって……」
 
 軽く落ち込みながら、何となく枕元にある目覚まし時計を見た。
 
 七時二十九分。
  
 鳴る一分前。タイミングが良かったのか悪かったのか分からない。
  
 せっかくなので、鳴るのを待つことにした。何しろこの目覚まし時計は、そんじょそこらのものとは違うのだ。
  
   『おーい起きろー』
    
  
 ――時刻が来て、収録されている音声を時計が流し始めた。けだるそうな少女の声。とても可愛い。
  
   『起きろって言ってるだろー。もー、なんでこの私がお前を起こさなければならんの
    だー? さっさと起きろよー』
    『まあまあ、お嬢様だっていつもこんな感じじゃないですか』
    
  
 ――少年風の女性の低い声が少女をたしなめた。
  
 
    『いつもなかなか起きないお嬢様を起こす僕の気持ちが、今お嬢様が感じていらっし
    ゃる気持ちですよ。お嬢様も、明日からちゃんと起きてくださいね』
   『なんで私が怒られる羽目になっているのだ! お前がさっさと起きないからだぞ!
    起きろバーカバーカ!』
    
  
 ――僕は満足して時計を止めた。
 
 やはり良い。ニヤニヤする。
  
 そう、この時計は、人気執事アニメのキャラクターボイスで起こしてくれるという素晴らしい一品なのだ。執事の少年役の臼石涼子さんと、お嬢様役の針宮理恵さんは僕の大好きな声優さんであるため、僕にとってこの時計はまさに宝物である。
  
 ちなみに、あるキャンペーンで当てたものだ。
  
 この時計を自慢すると、必ず「うわあ……」みたいな目で見る奴らがいる。しかしそれは偏見というものだ。僕はアニメと声優さんが好きなごく普通の人間である。
(#2へ続く)
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