迷ってへたれて抱きしめて#20

 今日の卒業式練習は全体の通し練習だった。授業がなくなったので、長い時間が確保できるようになったためだろう。開会式の宣言から始まって、式の進行通りに事が進んでいく。
  
 僕たち生徒は長い時間、拘束されることとなった。寒い体育館で、立ったり座ったりお辞儀させられたり。しかしそれはまだ良いほうである。
  
 一番辛いのは、椅子にずっと座っていなければならないことだった。
  
 パイプ椅子は、普段使っている木製の椅子よりは多少クッション性があった。しかしながら、座りっぱなしとなるとそんなものはもはや意味がなくなる。加えて、これは「式」の練習であり、教師たちが僕たちの座る姿勢にまで目を光らせていた。背筋を伸ばし、手は膝に置く。理想的な姿勢の維持は、結構しんどい。
  
 本番はきっと緊張感があるから、そこまで辛いとは感じなくて済むんだろうけど。
  
 練習じゃ、雑念しか浮かばねぇな。
  
 ちらり。
  
 僕は隣を見た。
  
 何を隠そう一番の雑念のもと。兎束さんがそこにいる。あわよくば、また筆談にでもならないかと思っているのだが……。
  
 ……これは、なりそうもないな。
  
 隣に座る彼女は、彼女らしいと言えば非常に彼女らしく、まっすぐ前を向いて背筋も伸ばし、優等生の姿で着席していた。しんどいとか思っている自分が恥ずかしくなる。
  
 と、同時に、やっぱり素敵だなと思った。兎束さんのこういう真面目さが好きだった。この前の、隠された不真面目さも良いなと思ったけど。……結局全部好きなのか、僕は。
  
 でも、これだけは間違いない。今、だるそうにしている奴もちらほらいる中、こうして頑張れる彼女の横顔は、とても素敵だと。
(ん……?)
 兎束さんの真面目さに感心しながらも、不真面目に彼女の顔をちらちら見ていた僕は、この時期に見慣れないあるものが彼女の額に浮かんでいるのを見つけた。
  
 体育館の照明によって、たまたま角度的に僕の目に映ったそれ。
  
 汗だった。
  
 季節は春。しかし体感は冬。二月の最も寒い時期よりはほんの少しマシになったとはいえ、体育館は凍えるように寒かった。
  
 一応設置されている大型のストーブも、距離があるためその恩恵は全く感じられず、暖まっている実感もない。そんな環境下での、汗である。
  
 少し不審に思って視線を下ろすと、兎束さんの手は膝の上で固く握られていた。
  
 まるで、力を込めることによって、何かを耐えるように。
  
 もう一度顔を見た。今度はもう、チラ見ではなくしっかりと見た。可愛かったが、今注目すべきはそこではない。元々整った顔立ちをしていて、肌も白い方ではある兎束さんだが、
  
 ここまで、白かっただろうか。
  
 もう少し、健康的な色をしてはいなかっただろうか。
  
 僕のなかで不審感は増し、そして、ついにそれは言葉となった。もちろん、場をわきまえて、小声ではあったが。
「顔色悪いけど、大丈夫……?」
 すると彼女は、姿勢を変えないまま、少しだけ笑って、僕に言った。
「……駄目、かも」
 僕はすかさず手を挙げた。
  
 貧血。
  
 鉄分が足りなくなることによって血が足りなくなり、内臓とかへの酸素が十分に供給されなくなった結果、眩暈が起きたり気分が悪くなったりするあれ。
  
 原因は様々あるらしいのだが、
「昨日はよく眠れた?」
「いえ……あの、ちょっと考え事してて……」
「朝ご飯は食べた?」
「すみません、あの、あんまり」
「もしかして、ダイエットしようとか思ってる?」
「えっ、いや、その……」
「私も女だから気持ちは分かるけど、あなたくらい細かったら必要ないからやめなさい。む
しろ成長を阻害しちゃうからね。おっぱいが大きくならないから! おっぱいが!」
「お、おっぱ……!? ……はい、ごめんなさい」
「じゃあ、あれは? ……男の子いると言いにくいか。…………」
「はい、あの……はい」
「そりゃ貧血になるわ!」
 ……との、ことらしい。
  
 保健室の先生がそう言うくらいだから、きっと原因だらけだったのだろう。睡眠不足、食事をちゃんと摂らない、必要のないダイエット、……最後は耳打ちしてたのでちょっと聞こえなかったが。
「じゃあ、君」
「は、はい!」
 兎束さんを問診していた先生が急にこちらを向いたので、僕は身を硬くした。さっきの……ダイエットのくだりでの発言からして、何だか威勢の良い先生なのは伝わってきていたので、何を言われるのか身構えてしまったわけだが。
  
 言われたのは、何と言うこともないことだった。
「私は今から体育館に行って、先生に彼女の様子とかを伝えてこなきゃなんないから、しばらく一緒にいてあげなさい」
 それくらいはお安い御用である。僕自身兎束さんは心配だったし、もちろん承諾した。
  
 去り際に先生は言った。
「二人きりで、しかもベッドがあるからって変なことしちゃ駄目よ? そういうのは正しい性教育をみっちり受けて、なおかつ責任が取れるくらいの一人前になってからにしなさい」
 その言葉を最後に、保健室のドアは閉められた。
「…………」
「…………」
 な、何か、キャラが濃い先生だなあ。思えば、保健室を使ったことなんてなかったから知らなかったよ。
 しかし何という置き土産をしてくれてしまったんだ。
  
 気まずい空気を感じた。変なことなんて考えていなかったにもかかわらず、あの人のせいで逆に意識してしまった感じだ。
  
 ベッドで横になる弱った兎束さん。
  
 抵抗する力もないだろう兎束さん。
  
 ……何を考えているのだろう僕は。
  
 そもそも、こんなとこで性欲爆発させて襲える度胸があるならば、こんなに長く片思いしてないっつーの。
  
 ……悲しい。
「……面白い、先生だったね」
 沈黙を破って、横になっている彼女が告げた。
  
 その顔色は、少しマシになってきている。
「まあ、良い先生だとは思うけどね。……多分」
「あ、秋本君は、おっぱ……あの、胸は、ないのと、あるのでは……」
「うん?」
「い、いやなんでもないです!」
 兎束さんは布団に潜ってしまった。声がごにょごにょしていて聞こえなかったのだが、いったい何だったのだろうか。
  
 それはさておき、ずっと立って見下ろしているのも変な感じなので、僕は椅子を一つ借りて、ベッドの横に腰かけた。
  
 その気配を感じてか、兎束さんが少し顔を布団から出した。掛布団を握る手の感じと、その覗かせた頭が可愛くて、思わず吹き出してしまう。
「えっ! なになに? 私変なことした?」
「いや、その、変なことじゃないけど、何か、面白くて」
「面白いってことは変なことじゃん……」
「違う違う。いや、うーんと……」
「なになに?」
「え、ええっと……」
 僕は非常に言葉に迷った。口に出すのが恥ずかしい。しかし、他に適当な言葉も浮かんでこなかった。あまり言いよどむのもそれはそれで情けない気がして、それでもさらっと言うための経験値は僕にはなくて。
「……かっ、可愛いな、ってさ」
 結果として、言えたけど、ださい感じになってしまった。
  
 兎束さんは、何も言わなかった。それはそれで、僕がどんどん恥ずかしくなってくるから辛い。とはいえ、何か返されても返答に困るが。
  
 ……あ。
 
 彼女はまた布団に潜ってしまった。隠れるように、すっぽりと、自分の全てを覆ってしまう。
  
 それが照れ隠しであるように見えてしまうのは、そうであってほしいという僕の欲目なのかもしれない。
「ぷはっ!」
 出てきた。
「……大丈夫?」
 僕は心配になった。さっきまでとは、逆の意味で。
  
 顔が赤くなっていた。おそらく、布団に潜ったせいだろう。布団のなかは暖かい上に息苦しい。潜っていれば、顔も赤くなるだろう。
「大丈夫じゃないよ……まったく……」
 兎束さんは怒ったように言った。拗ねた子供のようだ。その身を起こして、僕を見る。かと思えば、すぐ逸らしてしまった。
  
 何だ、一体。
「秋本君」
 そっぽを向いたまま、彼女は言った。
「昨日、とらメイトで言ったこと覚えてる?」
「ん? 昨日?」
 
 言われて僕は思考を巡らせた。すぐにピンとくる。空雅さんと別れてから、月野さんと会うまでの時間は大してなかった。きっとその間の、二人でいた時の話のことを言っているのだと思った。だとすれば、一つしかない。
「卒業までにやっておきたいことがある、だよね」
「うん、それ」
 兎束さんは顔をこちらに向けた。その表情は、普段のものに戻っている。いや、普段よりも何だか、穏やかに見えた。
「今、ここでやって良い?」
 どこか吹っ切れたような顔をしたまま、彼女は僕に尋ねる。
「良いけど、ここでできるものなの?」
 僕が訊くと、
「簡単だよ」
 彼女は微笑んだ。
「秋本君がいて、私に勇気があれば、すごく簡単なの。一瞬で済むことなの」
「僕がいて……?」
「うん、秋本君がいないと駄目。……じゃ、いくよ」
「う、うん」
 何をするつもりなのか全く読めなかった僕はとりあえず身構えた。自分の身に何が起こっても何とかできなければいけないからな。不測の事態に備えるってやつだ。
「あ、その前にちょっと待って」
「あるぇ?」
 一瞬で脱力した。肩透かしをくらった気分になる。どうしたんだろうか。
「ごめんね秋本君。その前にさ、言わないといけないことがあったの。秋本君にも準備してもらわないとだからね」
「準備?」
 フェイントに引っかけられたような心持ちではあったが、それは萌え袖セーターで手を合わせて謝る可愛い兎束さんに免じて許すことにして、僕は訊いた。
「あのね、お願いがあるの」
 彼女は真剣な顔になって言った。
「うん」
 頷いた僕の目を見つめる。
「私、ずるいんだけど、でも、譲れないんだよ。今回のことは」
 そのまま言葉が続いた。
「譲れない一方で、やっぱりこのままじゃ卑怯な気がして、納得できない気もしてる。そして、とても怖がってる自分もいる。だから、秋本君には、良かったら、私のわがままを聞いてほしい」
「……分かった」
 僕はそうとだけ答えた。
 正直、話は呑み込めなかった。ずるいだとか納得できないだとか、何の話をしているのかさっぱり分からなかった。でも、それを問う雰囲気ではなくて、彼女の瞳が僕に訴えていたから、とにかく僕は、
  
 『わがままを聞いてあげる』
  
 これが自分の役目だと判断して、多くは訊かなかった。
  
 どうやらそれは正解だったようで、彼女は笑顔を浮かべた。
「ありがとう、秋本君」
 
 そして僕に、一つの『わがまま』を告げたのだった。
「まだ答えを出さないで」
「……え?」
 どういうこと?
  
 思わずその言葉が、口から出そうになった。
  
 でも、彼女の瞳が、やっぱりそれを制して。僕はすんでのところで留まった。
   
 すぐに分かる。そう彼女が言っているような気がしたから。
  
 そしてそれが正しかったことを、僕は知るのだった。
「私、秋本君が好きです。ずっと、好きでした」
 それは、彼女の心の言葉が、僕のなかに入ってきた瞬間だった。
「いつか、私と付き合ってください。……もし、秋本君の心が、私を選んだなら」
 その時の彼女の笑顔は、僕が今まで見た中で最も、優しかった。
  
  
 その後の話をしたい。
  
 保健室の一件は、あの後に那都葉が来て大騒ぎになったことを言っておく。どこでどう間違った伝わり方をしたのか、那都葉には、僕が兎束さんのせいで大怪我をしたという風に伝達されたらしく、彼女は血相を変えていた。そして、そうじゃないと分かった後も、なぜか兎束さんを睨みつけていた。
  
 まああいつが時折意味不明なのはいつものことだ。
  
 僕と兎束さんは、卒業式まで、何事もなかったように過ごしきった。本当は、僕の心は穏やかではなかったのだけれど、兎束さんがあまりにも普通であり、あの『わがまま』もあったから、僕も普通にせざるを得なかったのだ。
  
 卒業式本番、席がずっと隣だったけれど、それでもなお、何もなかった。
  
 正直今僕は、どうしたら良いのかも分からない。
  
 僕の心はすでに兎束さんに向いているのに。まだ答えを出してはいけないなら、いつなら出して良いのか。
  
 とにかく今は、その時が来るのを待つことにしている。
  
 そして、あと一つ。
  
 話さなければならないニュースがあった。
  
 それは、なんてことないことのように、卒業式の後、しれっと、兎束さんから言われたことだった。
「そうそう、秋本君知ってた? 月野さんも希代学園なんだって。すごい偶然だよねー」
 ……それを聞かされた時、つい叫んでしまったのは言うまでもない。
  
 そんな偶然あるのかと思った。が、あったんだからあるんだろう。
「みんな一緒だね!」
 兎束さんは嬉しそうに笑って、僕も嬉しかった。
「……私も高校生になりたい」
 嬉しくなかったのは、多分我が妹くらいだろうな。
  
 四月になったら始まる、高校生活。
  
 楽しいものになる予感がしていた。桜がいて、月野さんがいて、そして、兎束さんがいる。きっとそれだけで、楽しくなるだろう。
  
 僕たちの中学生活は終わった。次は高校へと、進む。
  
  
        迷ってへたれて抱きしめて 中学編 完
(高校編へ続く)
―――――
この小説はFINEの作品です。著作権はFINEにありますので、無断転載等なさらぬようお願いいたします。

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