子、想う、そして月を見上げる

 扉が開くと、赤ら顔のおじさんたちが、やや怪しげな足取りで乗り込んできた。無駄によく通る大きな声で、会社への不平不満と、お酒の匂いを垂れ流している。満面の笑みと豪快な笑い声が、それはそれは楽しそうで、見ているこっちは悲しくなってきた。

 そんなおじさんたちから、女の子をかばうように立つ男の子がいる。大学生だろうか、入ってすぐの座席横スペースを頑なに死守しながら、自分を盾に、女の子を隠している。隠された女の子もまた、まんざらではないようで、「ありがと」なんて小声で言っているのが聞こえた。乗客がそれなりに多いとはいえ、満員というほどでもない車内なのに、そこだけ密着度が異常だった。それはそれは楽しそうで、見ているこっちは腹が立ってきた。

 駆け込み乗車はおやめください、というアナウンスを真っ向から無視して、息を切らせながらお兄さんも飛び込んできた。季節柄、走ると暑かったのだろう。スーツのジャケットは、カバンと共に小脇に抱えられ、首元のネクタイはゆるめられていた。ボタンもひとつ外れている。

 ギリギリで閉まった扉を背に、安堵の息をついたお兄さんは、我に返って気まずくなったのか、そそくさと車両の中ほどに消えていった。気持ちは分かる。駆け込み乗車をすると何だか気まずい。危険行為なのは重々承知での滑り込み。自責の念も襲ってくるし、他人の目線も気になる。だからそんなお兄さんを、慈悲の心で、今回だけ、私は許そう。なぜってそれは、この電車が、我々社畜の命綱、「終電」だからだ。

 酔っ払いたちは、依然として楽しそうに愚痴をこぼしていた。一方、その目の前に座っている派手めな格好をしたお姉さんは、我関せずといった空気をバリバリに醸し出して、腕を組んで目を閉じている。

 その隣のハゲ、もとい、頭のクールビズを推進している男性は……あれは本気で寝ているな。

 そのまた隣のおじさんが、迷惑そうに、もたれかかってくるツルツルとした頭を肩で押し返していた。

 きっとあの人も、それが女子大生の、ちょっといい香りのする頭だったら、やぶさかではない感じで、肩を貸してあげていたに違いない。

 女子大生に貸す肩はあっても、おじさんに貸す肩はない。これは世の中の真理だ。

 人間観察にも飽きたので、視線をスマホへと戻した。さっき一通り見たSNSアプリをもう一度立ち上げ、

 更新。

 更新。

 更新。

 ふたつみっつ、新規投稿が出てきたが、一瞬で読み終えた。休みが終わってしまうことを嘆く声がちらほらと目にとまった。気持ちは分かる。が、こいつらに対しては、同情の余地はない。

 なぜってそれは、他ならぬ私自身が、いわゆる「黄金週間」とやらには縁のない身の上に置かれているからだ。縁のある奴は、今日この日、この時間に、スーツを着て電車になんか乗っていない。

 ニュースアプリを開いた。これもまた、見飽きた記事が並んでいた。すぐに、ゲームアプリに切り替える。とんとんとん、と、数回タップしてみたものの、虚しくなってやめた。

 学生の頃、電車でゲームをしている大人を見ては、「いい大人が……」と、馬鹿にしたように見下していたはずなのに、どうしてこうなった、私。いや、そこで人を見下すような人間だったから、こうなっちゃったのかもしれない。知らんけど。

 ついにやることのなくなった私は、いっそシャットダウンとばかりに、まぶたを眼球の上に重ねてみた。眠い、ような気もする。少なくとも身体はずっしりしている。重力が、二倍とは言わないまでも、それに近しいくらいに増えたような気がする。だが、不思議と意識ははっきりしていた。

 仕方がないので終了処理をキャンセルし、窓の外に目をやった。都心から、それなりの距離を走ってきているが、外が真っ暗になることはなく、人工的な光がずっと流れ続けていた。とてもいびつな流れ星。田舎から出たての頃は、この、眠らない町に都会を感じていたけれど、そんな感覚もとうに失った。どうかあの星たちは燃え尽きないでほしい。

 そういえばあの頃は、都会の終電も初体験で、混み具合にびっくりしたっけ。

 最後の電車だっていうのに、どうしてこんなに混んでいるのだろう、どうしてこんなに、スーツの人たちで溢れているのだろうと思った気がする。

 いつの間にか、そんな驚きもどこかにいってしまった。まあ、めでたく私も、そんな「スーツの人たち」になったってことなのだろう。本当におめでたい。

 こんな生活を望んでいたわけじゃない、という気持ちはある。こんな未来を想像していたわけじゃないって、文句を言いたい気持ちもある。

 でも、そんな生活も、一方を見れば、悪いことばかりではなくて。だからこそ、踏ん切りがつかないでいる。

 職場の人たちは、みんないい人だ。出来の悪い私に、親切に仕事を教えてくれるし、残業も、みんなで頑張った結果、この時間までかかっているのだから仕方ない。その割に給料は、安いけど。でも、生活できないほどじゃない。

 確かに理想通りではないけれど、案外みんな、そんなものなのかもしれないし。

 特に、こうして終電に乗っていると、同じような人はたくさんいるし。

 やりがいだって、ないわけじゃないし。

 どんな環境でだって、きっと、不満は出るだろうから。

 結局は、自分の考え方次第。与えられた環境の中から、自分なりに良いところを見つけて、精一杯頑張れば、幸せになれるのかもしれない。

 ……よし、がんばろ!

 気づけば、電車は駅に着いていた。のっそりと席を立ち、電車を降りる。

 まばらな人波に従って、エスカレーター、そして改札へと進んだ。ICカードのタッチに失敗して慌てる。幸い、後ろに人はいなかった。

 車窓からはあんなに光が見えたのに、この駅はいつも暗い。排気ガスの入り交じった新鮮な外気を一息、変わり映えしない帰路を歩き出す。私以外の人影は、いつの間にか消えていた。とっくに日付も変わっているので無理もない。

 黙々と進んでいると、ふと、ポケットの中が震えた。歩みは止めずに画面を確認する。

「……もしもし? 母さん?」

 それは母からの電話だった。珍しいこともあるものだ。電話自体が珍しいし、時間帯も珍しい。珍しい祭りで心がざわつく。

「どうしたの、こんな時間に。なんかあった?」

 一抹の不安を言葉にしてみると、反して、あっけらかんとした声が返ってきた。どうやら、夜の六時に寝て今起きたらしい。早寝早起きにもほどがあった。

「もうすっかりばあちゃんやね」

 冗談めかしてそう言ってやったら、昔から知る母さんの笑い声が電話口の向こうで響いた。それから、用件も分からぬままに、意味もない会話をいくつか交わす。

 定番の質問、「ちゃんとご飯食べてる?」も、ばっちり聞かれた。なんで毎回これ聞いてくるんだろう。確かに一日一食くらいしか食べてはいないけど。

「――で、結局何の用だったの?」

 そのうちに、もう家に着く頃合いになったので、最後にそんな質問を投げかけてみた。さすがにそろそろ電話を終え、寝る準備をしなければならない。明日も仕事を頑張ると、さっき決めたばかりなのだ。

 しかし母さんはまた、そんな私の思惑を裏切った。

『いや、用っていうか、ほら、今日ってこどもの日だから。ついつい顔が浮かんでさー。せっかくだから、たまにはお母様に甘えさせたげよーと思ってね。ま、疲れたら、いつでも帰ってきなよー。どうせ生きてるうちにしか親には甘えられないんだから』

 あっはっは、と笑い飛ばす母さん。なんだかこの人、さっきから笑ってばかりだ。ひとりで楽しそうにしていて悔しいから、「不謹慎ネタだなんて、いよいよ本格的にばあちゃんだな」くらいには、言ってやれたら良かったのだけど。

「……もう日付変わったから、こどもの日は昨日だよ、母さん」

 私はそんな言葉を絞り出すので精一杯だった。

 何かが緩んだ気がして、あふれ出しそうで。

 抗うように月を見上げた。

 ……ああ、今度、いつ帰れるかな。

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本作は、朗読、ラジオドラマにご活用いただけるシナリオとして、「HEARシナリオ部」の活動内で作成いたしました。

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○クレジット

シナリオ作者:柚坂明都(ふぁいん) https://hear.jp/finevoices

シナリオ引用元:それはまるで大空のような https://fineblogs213.com/child-think-and-look-up-at-the-moon/

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