気がつくと私は、金色に輝く大きい扉の前に居た。
不思議と直前の記憶が曖昧で、本当に突然、この場所に立たされたような感覚があった。己の理解を超えた現状に一瞬呆けてしまうが、じわじわと周囲の情報を認知していくにしたがって、それは混乱の波となって私を襲った。ここはどこなのだろうという疑問と同時に、私は誰だったか、という揺らぎさえ心に浮かぶ。冷や汗が背中を伝うのが分かった。
キョロキョロをあたりを見回す。それは意識的にというよりも、半ば無意識の防衛反応としておこなった行動だった。少しでも現状を理解し、心を落ち着ける。そのために、私の目と脳はせわしなく動いた。
改めて、目の前には、最初に認識した金色の大きな扉がある。高さも幅も相当なものだ。全体を視界に入れるには、大きく後ろに下がる必要があるだろう。一見すると壁にしか見えないほどの扉は、しかし中央に走る黒い切れ目のような線と、到底私の背では届かないところにある大きな取っ手のおかげで、扉であると認識できた。
見る限り、その表面を覆う金色は金箔によるもののように見えた。まばゆく光を反射するその扉は、その大きさも相まって、とても神聖なものに見える。この扉に利用者がいるならば、それは神か仏に違いないと思わせる迫力があった。
そんな扉を擁する建物は、もちろん高い天井と、広大な壁に囲まれていた。その全てが金色を基調としており、そこに朱や紺碧で鮮やかに装飾が施されている。何か既視感があるなと感覚を辿れば、毎年の初詣や、遙か昔に修学旅行で見た神社仏閣に由来すると気付くことができた。そこで私はひとまず、この場所を「おそらく寺のような施設」と結論づける。
とはいえ私は信心深いほうではないため、装飾を見ても、一体どこのお寺で、どんな宗派なのかも皆目見当がつかなかった。こういうものは、歳を取れば自然と興味が湧き、調べるものだと思っていたが、そうではなかった。齢八十九になっても、私の関心は少しもそちらに向くことがなく、結果として今、こうして困っている。こんな状況に突然置かれる日が来るのなら、少しは興味を持つべきだったかと後悔した。
しかし、口惜しさは一瞬だ。過ぎたことを悔やんでどうにかなったことなど、人生で一度も無い。ならばと気持ちを切り替え、果たしてどうすれば帰れるのかを考えたとき、私はふと、己の違和感に気付いた。
それは、久しく感じていなかった感覚と言おうか。体に痛むところがなく、重くもなく、何でもできそうな感覚。そういえば、頭だっていやにすっきりとしている。それは言うなれば、若さとでも言うべき感覚だった。
それを認識した途端、目に見えて体が変化した。肌のしわが消え、筋肉に張りが戻り、視線が高くなる。曲がりっぱなしだった背を、久しぶりに伸ばすことができた。
また、五感全てが研ぎ澄まされたように鋭敏になったのを感じる。視界はより鮮やかになり、耳は音量を数段上げたかのように明瞭になった。鼻は、今まで気付いていなかった空気の匂いまで私の脳に伝えてくる。
私は自分の口角が上がるのを感じた。うずうずとした衝動に突き動かされ、年甲斐もなくその場で何度か飛び跳ねると、その度に両足は軽やかに地面から離れ、膝は柔軟に衝撃を吸収し、危なげも無く着地することができた。
自分の体を不自由なく動かせることの、なんと素晴らしきことよ! ――言い表せない喜びが込み上げてくる。それと同時に、私はうっすらと、ここがどういう場所なのかを理解した。現実にあり得ないことが起きている以上、ここは現実ではないのだろう。では夢なのかと言えば、この若き日の五感が、それもまたあり得ないと伝えてくる。となれば、この、そこはかとなく漂う神聖さとも相まって、答えはひとつしか思い浮かばなかった。
私はそれを、自分でも驚くほど素直に受け入れた。
すると、それに呼応してだろうか、目の前の大きな扉が、しかし不思議なくらい音もなく、左右にゆっくりと開き始めた。その先には、金を通り越して真っ白な、光り輝く階段があった。
ここを昇らねばならない。そのために、この体は若さを取りもどしたのだ。
私は誰に言われるでもなく、そう思った。
扉が開ききるのを待って、私は階段へと近づいた。近くで見る階段は、コンクリートや木でできたそれというよりは、石をひとつひとつ積み上げて作った石段のようなつくりをしていた。その行き先は、遙か高みへと続いているように見えたが、果てがどこかまでは見ることが叶わなかった。また、空へと伸びるようなその階段の周辺には、異様なほどの闇、いや、黒が広がっていた。私はひとつ頷いて、その光の道を歩み始める。
一歩。――私の誕生を喜ぶ両親の笑顔が見えた。
一歩。――私が眠る様を見て微笑む両親が見えた。
一歩。――私が笑うと、一緒になって頬をゆるめる両親が見えた。
……ついついつられて笑ってしまいながら、私はこの道の正体を知る。
おそらくしばらくの間、私は一歩進む度に、両親の笑顔を見ることになるのだろう。そのあとは、祖父や祖母か、あるいは幼き日の友達か。面倒を見てくれた近所のおばさんかもしれない。何にせよ、徳を積む、とはよく言ったものだと感心した。
この積み上げた道が極楽浄土まで続いている自信はなかったが、最期の景色が誰かの笑顔なら、きっと悪くないだろう。
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本作は、朗読、ラジオドラマにご活用いただけるシナリオとして、「HEARシナリオ部」の活動内で作成いたしました。
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シナリオ作者:柚坂明都(ふぁいん) https://hear.jp/finevoices
シナリオ引用元:それはまるで大空のような https://fineblogs213.com/a-step/
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