本当にふと、思ったことだが。
愛というやつは、信じるものなのかもしれない。
愛の伝え方には、言葉だったり、歌だったり、態度だったり、色々あるけれど、どんな風に伝えたところで、おそらく正確には伝わらないんじゃないだろうか。人間は、感じているものを感じているままに伝えることはできないのだから、必ず、受け取る側が「解釈」することになる。
ちょうど、本に書かれた文章を読み解いて理解するように、渡された言葉を噛み砕いて理解するしか、他人の気持ちを知るすべはない。
ということは、読み手によって本の解釈が異なる場合があるように、伝えられた愛だって、いかようにも解釈できてしまうのだ。つまり、それだけの「余地」があるということ。
渡された言葉を信じても良い。だが、疑うこともできる。
本当に、愛というのは、存在が曖昧だ。あることにもできるし、ないものにもできる。
自分はこの人を愛しているのだと信じれば、確かにそこには愛があるだろう。
疑ってかかれば、愛はなくなるか、あるいは、見えなくなるのだろう。
見えなくなれば。
感じられなくなれば。
それはつまり、ないのと同じだ。
愛を抱く人は自分のなかのその愛を、愛を伝えられた人はその手渡された愛を、信じられなくなれば、愛を見失うことになる。
……やはり、愛は信じるものだ。信じてもらわなければ、存在できないものだ。僕はそう思う。
もし、僕に向かって、「僕への愛を信じている人」が愛を叫ぶなら、僕はその愛を信じたい。
もし、僕が「誰かへの愛を信じて」叫んだなら、その人には信じて欲しい。
愛というやつは、ないよりは、あるほうがきっといい。
信じたほうが、きっと幸せだと思うから。
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