「一安心したのだった、じゃないよお兄ちゃん」
――が、そんな心の安寧は、一秒も続かないうちに乱された。
耳元で放たれた、心をざわつかせてくる低い囁きによって。
……なぜ心がざわついたのか。
それは、考えていることを読まれたから。
……ではない。
耳にかかった吐息とともに、別のものも浴びた気がしたからだ。
それは、日常感じることはまずない気配。
殺気、というやつだ。おそらくはな。
「……な、那都葉?」
僕は背中に冷たいものを感じながら、杏子ちゃんとは反対のほうの隣、声を発した主のほうへ顔を向けた。すると、まっすぐこちらを見据える、光を失ったような暗い瞳と目が合ってしまい、ぎくりとする。
妹は、恐ろしく無表情だった。それは、一見して怒っていることが分かる顔であり、なぜなら、那都葉はデフォルトが笑顔みたいな奴だからだ。
いつもにこにこしながら変なことをしでかす。それが我が妹の通常。よって、これは異常にして緊急の事態だった。
そんな、燃えるような怒りと氷のような冷たさをその身に宿した僕の可愛い、もうとってもプリティーな妹は、先ほど僕に囁いたのと同じ低い声で、起伏なくゆっくりと告げた。
「そんなふうに心の中で褒めても無駄だよお兄ちゃん。私、今、すっごい怒ってるからね」
くっ……無駄だったか。
というか当たり前のように読心してくるなこいつ。
「最初は、ちょっと大事そうな話をしていたから我慢してたんだよ? でもね、後のはいけないよ。あんないちゃいちゃは、私、許しません」
「い、いちゃいちゃってなあ、お前……」
予想はしていたが、案の定な理由でお怒りになっていた妹に弁明すべく、僕は口を開く。
だが、
「『美味しい?』って聞かれて『すごく美味しいよ』って答えるのなんて、そんなの何だか、新婚さんみたいだよね? でもお兄ちゃん、別にその子と結婚してないよね? じゃあおかしいよね? あんなやりとりするのおかしいよね? 変だよね?」
我が妹は言い訳のチャンスすら与えてはくれず、淡々と、僕を責めたてるように言葉を紡いでいった。最高潮に怒っているせいなのか、自己流のちょっとよく分からない理屈を並べてくる。
新婚さんも確かにそういうやりとりはするだろうけど、別に新婚さんに限った話じゃないだろ、と思った。だって、結婚前のカップルとかだってやるだろうからな。
「ふーん、そっかあ、カップルかあ。へぇ……、お兄ちゃんは、小学生のいとこを彼女にするつもりなのかな……?」
「いやそうは言ってねぇよ! というかいい加減、そうやってしれっと思考を読むのをやめろ! 普通の人間はできないんだぞそんなこと」
「え、妹なら誰でもできるよ? お兄ちゃんへの愛があればね」
「んなわけあるかっ!」
僕は暴走著しい妹を止めるべく、いよいよ声を大きめにツッコミを入れていくことにした。
叫ぶように受け答えをしつつ、ちらりと横目で見ると、杏子ちゃんはもう何が何だか分からないといった困惑の表情を浮かべていた。
一方、那都葉の前に座る母さんは、まあいつものことでしょと言わんばかりに、完全にスルーして双子の世話を焼いている。止める気はないらしい。
つまり、やっぱり僕は、僕の力だけでこの妹をどうにかしなければならないということだった。
しかし、依然として妹の怒りは続く。僕の反論など意に介さないと言わんばかりに、相変わらず淡々と言葉を続けていった。
「そもそもお兄ちゃん、琉未ちゃんに「おにいちゃん」って呼ばせてたよね? あのときは、まさかあんな小さな子に怒られると思ってなかったから動揺してスルーしちゃったけど、あれも駄目だよね。だって、あの子はお兄ちゃんの妹じゃないもん。お兄ちゃんの妹は私だけなんだから」
話題は今の出来事から過去の出来事に移行していた。怒っている間に思い出したらしい。これはまずい傾向だった。このままいくと、どんどん昔の話を掘り返されかねない。
厄介なのは、それらの出来事がおそらく全部、那都葉が勝手に怒りを感じた出来事だということだった。
すなわち、ほぼほぼ理不尽な怒りということである。それが始まると、正直とても面倒くさい。
危機感を覚えた僕は、思い切って話題の方向を変えてみることにした。
「な、なあ那都葉。ところでだな、僕の話聞いてたんだろ? お前はどうだ?」
「見境なく誰にでもお兄ちゃんと呼ばせるなんてことは…………どうだって、何?」
物は試しにやってみた話題逸らしだったが、果たしてそれは意外にも功を奏し、話を続けていた那都葉の注意が僕の質問へと向いた。
普段ならこういうのはあっさり見抜かれてしまうものだが、今回は心底怒っていたのが逆に良かったのかもしれない。
このチャンスを逃すわけにはいかなかった。僕は那都葉の性格上釣れてくれるだろうエサを交えて言葉を続ける。
「だから、ついてきたがるだろう凪未ちゃんを、他の図書館利用者の迷惑にならない方法で楽しませる方法だよ。何か思いつかないか? もし何か案があれば、那都葉にも明日、一緒に来てもらおうと思うんだが」
「案があれば……一緒に……」
――どうやら見事に食いついてくれたようだった。
まあ、来るなと言ったところでこいつはついてきたのかもしれないが、非公認よりは公認してもらえたほうが良いというような思いも、きっと那都葉のなかにもあったのだろう。
「……ちょっと考えてみても良い?」
今日の怒りよりも明日堂々と一緒に行けるようになるほうを選んでくれたのか、那都葉の思考はそちらへ移った。
とりあえず、これにて一件落着だな。普段は兄離れしてもらいたいと思っているが、たまにはあのブラコンっぷりを逆に利用するのも手だということか。
さて、あとは僕自身も、明日どうするかを考えないと、だな……。
(#12へ続く)
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