迷ってへたれて抱きしめて #17

 二階に上がると僕は、那都葉の部屋をノックした。
  
 返事はない。拗ねてるな、こりゃマジで。
「入るぞ」
 ドアを開けた。
「あれ、いないな……」
 が、そこに那都葉の姿はなかった。
  
 どこ行ったんだ、あいつ。
  
 トイレも見てみたが鍵はかかっておらず、ノックをしても返事はなかったのでいないようである。
  
 元我が家の図書室、現物置には入らないと思うので、残るは、あそこしかない。
「おいおい、僕の部屋かよ」
 あいつは時折、勝手に僕の部屋に入っていることがある。まあ別にそれで怒ることはないのだが……部屋のものを勝手にいじったりはしないし。でも、普通勝手には入らないよな。
 さて、なんて声をかけようか。考えながら、自分の部屋のドアを開けると、
「お兄ちゃん!」
「ぬおおっ!?」
 扉を開くことがトラップの発動条件だったかのような絶妙のタイミングで、中から那都葉が飛び出してきた。そして飛びついてきた。
  
 何事だこれは!
「お兄ちゃんお兄ちゃん! おかえり! もー、待ってたんだよ?」
 ドアの向こうが透けて見えていたとしか思えないほど的確に僕の腰から背中にかけて手を回し、抱き付いて、胸に顔を埋めるように密着する那都葉が、顔を上げて、満面の笑みで僕を見上げた。
  
 そう、それはまるでひとりぼっちにされていた犬が、帰ってきた主人を出迎えた時のよう。しっぽを引きちぎれそうなくらい振って、喜びを前面に出しているような、そんな感じだ。
「……お前、何だそれ」
 そんな那都葉を見て、僕の口からまず出たのは、「ただいま」ではなくそれだった。もちろん、この歓迎ぶりに対してじゃない。世の一般的な妹の基準からすれば十分妙かもしれないが、僕の妹はまあ、これくらいが通常運転だからな。
  
 僕が不思議だったのは、彼女の格好だった。
「似合うでしょ?」
「……まあ、な」
 似合うかどうかで言えば、似合うどころじゃなくめちゃくちゃはまっていた。否定のしようがないほどに。
「好きでしょ? ね、お兄ちゃん。こういうの好きでしょ?」
 僕から離れた那都葉は、僕の目の前でくるりと回った。
 
 髪が揺れる。後ろで二つにまとめられた、その髪が。
  
 そして同時にスカートもふわりと舞う。隠れていた細すぎず太すぎない、ほどよく女の子らしい太腿がお目見えした。その白い肌から下に目線を落とせば、膝のやや上あたりから下は黒の布地が締め付けており、那都葉の、やはり絶妙な太さを誇る脚のラインを綺麗に見せていた。
「……好きでしょ?」
 一回転した那都葉が再び正面を向いて、見せびらかすように手を広げ、少し首をかしげて、いたずらっぽい笑みを浮かべ静止した。
  
 好きなのは分かってるんだよ?
  
 そんな自信にも似た那都葉の心が分かるようだった。
  
 ……こいつは本当にすごい。すごい、あざとい。
  
 僕はただ感心するばかりだった。その幼さを助長するようなおさげも、比率が完璧な絶対領域も、かしげた首も、その笑顔も。……ここまでくると、もはや悔しい。
  
 ついでに、伸ばした腕の袖は、やや長めで、手が半分隠れるくらいの長さだ。那都葉が上に着ているセーターは、やや大きめで、だぶっとしていた。何から何まで抜け目のないやつだ。
「……どうしてそんな格好を?」
 僕は、認める言葉の代わりに質問を口にした。
  
 が、
「好き、でしょ? ねえ、お兄ちゃん」
「……」
 この妹は、許してくれなかった。どうしても、どうしても、僕に、言わせる気だ。その証拠に、僕の質問には答える気配を見せず、黙って僕を見つめていた。しかもわざわざ体と顔をやや横に傾け、下から覗き込むようにして。
  
 上から目線というやつは、黒目と白目のバランスが最も可愛くなるのだ。僕はそう思っている。那都葉もそう考えて、こいつは百パーセント意識して、それでいて自然にみえるように、それをやっているのだろう。
  
 ……駄目だな、こりゃ。
  
 僕は頭をかいた。
  
 勝てねぇわ。
「……好きだよ、可愛いよ。認める」
「わーい!」
 那都葉は再び僕に抱きついた。
「……お兄ちゃん、……」
 収まりよい小柄な妹は、くっついて、何かを呟いた。幸せそうなことだけは、伝わってきた。
  
 そんなに寂しかったかねぇ。
  
 僕はそのまま、妹の頭を撫でた。
  
 その後、僕は那都葉に引っ張られるままにベッドへと移動した。
「お兄ちゃん、脚、開いて?」
「は?」
 いつものようにベッドに腰かけるなり、僕は言われる。
「座ったままでいいから。脚、開いて?」
「……何を企んでる」
 不安に駆られて思わず訊いた。すると妹は妖しく笑みを浮かべて、僕自身が忘れていたことを告げた。
「『帰ったら何でもしてやるから』でしょ?」
 ……言葉が出なかった。
  
 それはそう、僕が今朝、家を出る前に、母さんに伝言を頼んだ言葉。那都葉についてこられることを回避するために、勢いで言った約束。
「何でもするんでしょ? 何でもするって言ったもんね?」
 普段の那都葉とはまた違う強引さで、妹は僕に、自分の言葉に宿る絶大な力を思い出させた。
「……だから、ほら。平気だから。ね? お兄ちゃん」
 優しいトーンが、逆に怖い。不安はさらに増したが、目に見えぬ圧力に逆らえずに僕は脚を大きく左右に広げた。
  
 いざとなったら力づくで逃げる。
  
 そんな決意を固めた。
  
 ――が、次の瞬間だった。
 
 そんな緊張が解けたのは。
「わーい!」
 途端にいつもの調子に戻った那都葉が、嬉しそうに、その開いた脚の間に腰かけた。すっぽりとはまる。椅子の背もたれに体を預けるかのように僕に寄りかかって、
「あ、お兄ちゃん。ちょっと狭いかも」
 そんな注文をひとつ。
  
 仕方なく僕は、そのまま後ろに下がるようにしてベッドに上がり、壁に背中が当たるところまで進んだ。
「うん、満足!」
 那都葉は僕の腕を自分のお腹まで運んで、えへ、と笑った。
  
 今の僕の状態を整理すると、ベッドの上で壁に寄りかかって座っていて、その脚の間に那都葉がおり、彼女は僕に寄りかかっている、という感じだ。そして僕は彼女を後ろから抱きしめるようにして、手を回していると。
  
 ……はあ、これがやりたかったのね。
「あー、落ち着く」
 妹は満足げだった。まあ、良いなら良いけどな。
「あ、お兄ちゃん」
「何だ?」
「なんだったら、もう少し手を上のほうにやっても良いんだよ?」
「……ばーか」
「ふふ。きっと気持ち良いと思うけどな。やーらかいよ?」
「そういうこと言うな。怒るぞ」
「問題ないよ、お兄ちゃんにしか言わないもん」
「大問題だっつーの」
「そう? 私は良いのになあ」
「世間一般が駄目って言うんだよ」
「お兄ちゃんは?」
「言わずもがな」
「それはざんねん!」
 ……まったく、こいつは。
  
 いったい何を考えているのか。時折本当に、分からなくなるぜ。分かりやすいようで、意味不明なんだよな。こいつが何を求めているのか。
  
 まあ、それでも僕は、兄貴だから。那都葉が兄離れするまでは、面倒見てやるさ。
「わ……。……良いね、お兄ちゃん」
  
 まあ、こうしてなでてやるくらいはしてやるよ。
  
 ――しかしどうやらこいつの兄離れがまだまだ遠いらしいことを、僕は夜に、知ることになる。
  
 深夜。
  
 時刻は、日付が変わったくらい。
  
 僕は暗い室内でベッドに入ったまま、携帯で調べ物をしていた。調べていたのは、女の子と楽しめそうな場所。気恥ずかしいが端的に言うなら、デートスポット的なところだ。
  
 とはいえ、単にやみくもに調べているわけではない。僕に良い場所を教えてくれた人がいた。
  
 そう、空雅さんである。
  
 昼間の帰りの電車で、彼なら詳しそうな気がして、メールを送ったのだった。いきなりのお願いに空雅さんは困った様子もなく、快く答えてくれた。
  
 最後の一文、「どうか、よろしくな」だけはよく分からなかったが。
  
 しかし本当に、空雅さんはモテるのだなということが分かった。そりゃあんなにイケメンなのだ、女の子が放っておかないのだろうが。急なお願いにも関わらず、いくつも場所を挙げてくれたからな。女の子と一緒に行くことも多々あるのだろう。
  
 でもちなみに、彼女はいないらしい。質問するときに、
『空雅さんなら恋人とかもいるでしょうし、知ってると思って……』
 と、書いたところ、いないとの答えが返ってきたのだ。意外に感じたが、
『人として面白い奴があんまりいなくてな』
 その言葉で、なんとなく納得した。
「……やっぱ教えてもらって正解だったな」
 誰に言うでもないが、口に出た。空雅さんは大学生だけあってやはり僕なんかより遥かに行動範囲が広くて、行ったことのない場所を多く知っていた。実際に女の子が喜んでいたという彼の経験込みなのも嬉しい。何の手がかりもなく調べていては、ここまで有益な情報は手に入らなかっただろう。
  
 ふう、と息を吐いて携帯を置き、そろそろ寝ようと、目を閉じた時だった。
  
 コンコン。
  
 静かな室内に、ノックの音が響いた。
「お兄ちゃん……起きてる?」
「那都葉?」
 叩いたのは那都葉らしかった。入るように言うと、パジャマの妹が姿を見せた。
「どうした?」
 半身を起こして訊くと、
「お兄ちゃん……お願いがあるの。もいっこだけ」
 どこか弱々しい調子で妹は言った。暗いので表情は分からない。が、不安を抱えているような、そんな声に聞こえる。
「今日だけでいいから……昔みたいに、一緒に寝ていい……?」
 そんな調子で、助けを求めるみたいに、すがるみたいに、言われたから。
「……今日だけな」
 駄目だなんて、言えなかった。
  
 僕と壁の間に収まった那都葉は、何も言わずに、僕の腕にしがみついてきた。それはいつものハグとはまたどこか違って、必死なようにも思えた。
「大丈夫か?」
 さすがに心配になった。元気そうだったから気にしてなかったが、母さんが感じたという那都葉の妙な様子は、もしかしたらこんな感じのやつだったのか?
「……今、お兄ちゃん確認中」
 腕から体へと手を伸ばし、那都葉は呟いた。
  
 …………。
「……お兄ちゃん、ちゃんといるだろ?」
「――――うん。いる。いるよ、お兄ちゃんが、ここに」
「何を怖がってるのか知らないけど、お兄ちゃんがいれば安心だろ?」
「うん」
「確認が終わったなら、安心して寝ろ。どこにも行かないから」
「……ありがと、お兄ちゃん」
 沈黙が訪れた。僕はもうそれ以上は何も言わずに、那都葉もまた、僕にくっついたままじっとしていて、ただただ、静かだった。
  
 しばらくそのままで、僕らはいた。左側に那都葉の温度を感じながら、僕にはやがて、まどろみがやってくる。
  
 そんななか、那都葉が小さな声で言った。
「……もうすぐお兄ちゃん、卒業だよね」
「……そうだな、あと、一週間くらいか」
「私、それが最近、怖くて、寂しいんだ。何だか少しお兄ちゃんが遠くに行くような気がして」
「……だから、か?」
「うん。夜になると、どうしても、考えちゃうから」
「……馬鹿だな、高校に行くだけだろ? 家を出るわけでもあるまいし」
「そう、なんだけどね……」
「……僕は、ずっとお前の兄貴だ。それは一生変わらない。別の学校に行っても、一人暮らしして、別々に暮らすことになってもだ。だから、不安に思わなくて良いんだよ」
「ずっと、お兄ちゃん。お兄ちゃんは、ずっと、私のお兄ちゃん……」
「……おう。分かったら寝ろ」
「うん……おやすみ、お兄ちゃん」
「おやすみ、那都葉……」
 僕は那都葉をひと撫でして、そのまま、眠りに落ちた。
(#18へ続く)
―――――
この小説はFINEの作品です。著作権はFINEにありますので、無断転載等なさらぬようお願いいたします。

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