あの頃屋上に俺達はいた

 紺のロングスカートと黒い髪をなびかせながら、茜が何かを呟いた。

 俺が視線を向けたときには、腰に手を当て、仁王立ちで空を眺めるいつもの姿しか見えなかった。

 ただ、そのときのあいつの目が、なんだかいつもと違った気がして。

 ――それ以来、俺はあいつの言葉を探している。

 窓から見える景色がだんだん緑づいてきている。新幹線からさらに乗り換えを経て、揺られることしばらく。故郷の色になってきた。

 山と自然に囲まれた、と言えば聞こえは良いが、つまりは「超」のつくド田舎だ。

 この路線に乗るのも何年ぶりだろうか。免許が取れるようになってすぐにバイクを乗り回していたから、十年くらいは経っているのかもしれない。

 都会なら人で混み合う夕刻ゆうどき。……にも関わらず、車内の人影はまばらだった。昔よりさらに減ったか? 休日で学生の姿がないからかもしれないが……いや、そもそも俺の学校、廃校になったんだっけ。

 元より真面目に通うタチではなかったから、学校にさほど思い入れはない。……はずなのに、いざ無くなってみると少しだけ寂しいのが不思議だ。思い返してみても、思い出なんかないっていうのに。

 ……いや、全くないわけではない、か。

 あの屋上のことは今も思い出す。――そして、あいつのことも。

『次は、水芭みずば町です。お出口は左側です。The next station is Mizubacho――』

 社内アナウンスが、久しぶりに聞く駅の名を告げる。俺は足下に置いていたデカいリュックを持ち上げると、家を飛び出したあの日以来初めて、地元の地を踏んだ。

「はー、びっくりするくらい変わってねぇ」

 ただ改札があるだけの駅を出て、自然と出た第一声がそれだった。出口に対して左右に伸びる細い道は、車がすれ違えるか怪しい幅しかないし、あたりを見回してみても、廃墟みたいなトタン張りの平屋しかない。駅ビルやおしゃれなカフェなんて贅沢な代物はもちろん、バス停やタクシー乗り場すらない有様だ。十年経ったくせに全く発展がないどころか、完全に老化している。

 振り返れば、年季の入った駅舎が薄暗い蛍光灯に照らされていた。なんで田舎ってのは、こんな電球ひとつとってまでぼんやりしてやがるんだ? 夕暮れの頃合いと相まって、それは完全に周囲の光と同化している。もっと主張しろよ、人工の光のくせによ。自然に溶け込んでんじゃねぇ。

「どうよ、ひっさしぶりの地元はよ」

「うわびびったあ! ……なんだよ、田中のおっちゃんかよ」

 突然背後からかけられた声に飛び上がると、そこにはたばこをくわえた無精ひげの親父がいた。薄汚れたポロシャツに、スラックスとスニーカー。十年前から変わらぬファッションセンスなのですぐに分かった。何よりも、黒いからな、この人。紫外線対策なんて言葉とは一生縁がないだろう見た目をしている。普通の八百屋のくせに、ボディービルダー顔負けの黒さだ。この時間だと、そろそろ見えなくなるんじゃね? 闇に紛れて。

 そんなおっちゃんは、驚く俺の背中をバシンッ、と叩いた。

「なんだよとはなんだ、せっかくおめぇの母ちゃんに言われて、家まで送ってやろうってのによ。聞いてんだろ? 俺が迎えにくるって」

「いや電話で言われてたけどさ、どうせまた俺が八百屋まで歩いて行くんだろうなと思ってたんだよ。この辺、車止めるとこないんだから……いつもそうだったじゃんか」

「お、さすがのトシもあの頃の恩は忘れてなかったか。おめぇのことだから、きっと八百屋までの道も忘れちまったんじゃねぇかと思ったよ」

「さすがに忘れねぇよ! 俺のことなんだと思ってんだよ!」

「そらおめぇ、親父とお袋ほっぽって、十七で田舎を飛び出した不良バカ息子さ」

「なっ、そっ、それはっ……!」

 親父はガハハ、と豪快に笑う。たばこの煙が、暗くなり始めた空へと消えていった。

 俺は言い返せなかった。

 ――昔の俺は、分かりやすく荒れていた。

 きっかけは何だったのか覚えていない。きっかけなんて、なかったのかもしれない。ただ、十代特有の反発心が、俺をそっちの道へと進めたのだろう。あの頃の俺は、常にイライラしていた。

 目につくものが何でも気に入らなかった。

 “吸ってはダメだと大人が言うから”という理由で、中学生にして、美味うまくもないたばこを吸った。

 親が買ってくれた制服は、数回しか着なかった。

 代わりにいつも、ジャージやスウェットで過ごした。

 授業は、立ち入り禁止の屋上でサボった。

 家に居づらいから登校はしたが、まともに出席した記憶はほとんどない。

 とにかく、そうやって、「普通」というものに逆らって生きていた。それが、高校も続いた。

 田舎とはいえ、二十一世紀に入った世の中では、俺みたいなやつは少数派だった。悪ぶったやつはいたが、何だかんだ制服は着ていたし、授業にも出ていたと思う。だから当然、馬の合う奴なんていなかった。自分でも浮いていることは分かっていたが、むしろそれが良かった。

『おーヒマ人。毎日毎日飽きないねぇ』

 あいつの声が、頭に響く。

 ――目を開けると、軽トラの助手席に俺はいた。

「おうトシ、起きたか。そろそろ着くぞ」

 ヘッドライトが照らす夜道。気付けば、すっかり日は暮れていた。

 さすがに日が長くなったと言っても、八時近ければ完全に夜だ。いつの間にか、俺は寝ちまっていたらしい。

「悪いおっちゃん。寝る気はなかったんだけどな」

「おー、気にすんな。東京からじゃ遠いからな、疲れたんだろ。ま、おめぇはいつも車に乗るとすぐ寝てたけどな」

「そうだっけ?」

「なんだ、それは覚えてねぇのか。車の振動が眠気を誘うとか言って、毎回寝てたろ。ったく、どうせ授業も出ないで寝てばっかいただろうに、どんだけ寝るんだと呆れたもんさ」

 ガハハ、と車内に笑い声が響く。同時に吐き出された煙のにおいをかいでいたら、うっすらと記憶が蘇ってきた。

 俺がおっちゃんに送ってもらっていたのは中学の頃だ。あの頃は、統合に統合を重ねて一個になっちまった中学までチャリで行っていたから、家まで十キロ超えの山道は正直キツかった。そんな俺を、おっちゃんが家まで送ってくれたのだ。たまたまおっちゃんの手が空いていれば、という感じだったが。

 荷台にチャリを積んで、助手席に乗せてもらうのは、正直ありがたかった。だが当時の俺は、乗せてもらいはするくせに、お礼はもちろん、おっちゃんと何をしゃべっていいかも分からなかった。

 ……そうだ、だから寝ていたのだ。要は寝たふりだった。車の振動云々は、あの頃の俺が適当についた嘘だろう。

『あっはは! ほんとに不器用だよな、お前。うけるー!』

 ――夢の名残か、あいつの声がちらつく。今思い出しても腹立たしい、でも、耳に残る声だ。

「……おっちゃん、俺も一本、いい?」

「おお、いいぞ。今はもうガキじゃねぇからな、止める理由もねぇ」

「サンキュ」

 俺は、帰ってきてから妙にうるさいあいつの記憶を振り払うため、懐から電子たばこを取り出した。

 たばこを突っ込み、熱して、吸う。

「なんだトシ、お前もそっちか。うまくねぇだろ、そんなもん」

「もう慣れたよ。それに、東京じゃ大体みんなこれなんだ」

「『みんなこれ』ねぇ」

「……おっちゃんが今言ったばっかじゃんか。俺ももうガキじゃねぇんだよ」

『あたしは結構好きだぜ、自分を貫くってやつ』

「――だーもう、うっせぇなあ!!」

 気付くと俺は、叫んでいた。

 雅茜みやびあかねは、有名人だった。

 俺の二つ上にして、俺以上に古風なワル。何の影響を受けたのか、紺のセーラー服にロングスカート、背中に赤く縫われた「我道がどう」の刺繍がトレードマークだった。

 あえて染めずに、黒にこだわったロングヘアーから覗く、ごりごりのピアス。均整が取れている顔つきがゆえに、殺傷力を秘めた瞳。あいつに睨まれると、男でも一瞬ひるむほどだった。

 ついたあだ名は「北高きたこう毒華どくばな」。本人は「だせぇ」と一蹴していたが、名前を出せば誰もがビビるくらいには、近隣にとどろいていた。

 俺が、親に無理矢理させられた高校受験で北高を選んだのは、偏差値の問題もあるが、茜の存在が大きかった。今思えば、噂に聞く毒華なら、自分と似たところがあるんじゃないかと期待していたのだろう。

 だからこそ、高校に入学した初日。

 中学と変わらぬ習慣で向かった屋上に、あいつの姿があったとき。

 ちょっとだけ喜んでしまったことを覚えている。

 ――そんなことを思い出しながら、俺はフェンスをのぼっていた。

 おっちゃんに急遽頼み込んで、進路変更してもらった先。廃校となった俺の母校が、この内側にある。閉鎖されて数年経つが、まだ取り壊しの予定は立っていないらしい。予算の関係か、こんな田舎では、倒壊の危険が出るまで放置されるんだろう。

 幸い、俺のフェンス突破力は衰えていなかった。十年ぶりなので若干時間はかかったが、さほど苦戦せずに乗り越える。学校をフケるときに、稀に教師に追いかけられることがあって、そのときの経験が活きた。ま、やってることは不法侵入なので、結局ろくなもんじゃないが。

「突然叫んだかと思えば『高校に行ってくれ』だもんな、驚いたぜ」

「悪いな、おっちゃん。なんつーか、思い出が暴走してよ」

「思い出ねぇ。トシに高校の思い出があるってのも信じられねぇけどよ。……確認だが、ほんとにおめぇのたばこ、やべぇもんじゃねぇんだよな?」

「違うって! まあ体に悪いもんではあるだろうけどさ……」

「そうか。そいじゃ俺が健康にいいもんくれてやる。ほれ」

 そう言っておっちゃんが何かを空高く放り投げる。フェンスを越えて降ってきたのは、なつかしの銘柄だった。

「トシ、それ吸ってたろ。帰ってきたついでにくれてやろうかと思ってたのに、今や裏切りもんだもんなあ」

「裏切りって。俺は別に……」

「ま、思い出ついでに吸ってみるのもいいんじゃねぇか。強制はしねぇけどな」

 たばこの煙をふかしながら、おっちゃんは歯を見せた。ちょっと照れくさそうに見えるのは、俺の気のせいではないだろう。おっちゃんなりに、俺が帰ってくるのを待っていてくれたのかもしれない。自然と頬がゆるんだ。

 言うなら今、か。

「おっちゃん」

「ん? ああ、迎えは一時間後だろ?」

「そうじゃなくて、その。ありがとな、色々と。昔から味方になってくれて、嬉しかったよ」

 おっちゃんの目が、わずかに開いた気がした。

「……やっぱおめぇのたばこ、やべぇもんかもしれねぇな」

「おいくそじじぃ!」

「ガハハ! じゃ、また迎えに来る」

 おっちゃんは身を翻すと、手をひらひらさせて田舎の夜に消えていった。

 ――ったく、あの人は……。でもまあ、確かに柄にもないことをしちまったかもな。

 だが、少しすっきりした気がした。この調子でもうひとつの整理も済ませてしまおう。

 俺も身を翻すと、校舎に向き合った。まずは侵入経路を探さねばならない。完全に思考回路が犯罪者のそれだが、ま、あれだ。卒業生の母校訪問ってことで許してもらおう。

 色々と探し回った結果、一階の戸締まりはしっかりされていたが、二階の窓はいくつか開いていた。壁伝いにのぼってみるもんだな。また役に立ったぞ昔の記憶。

 そのまま中に入って、階段で屋上まであがる。当時壊した屋上の鍵は、そのまま壊れていた。

 きしむ音とともに開くと、懐かしい光景が出迎えてくれる。廃校となった校舎に電気が供給されているはずもないため、完全に真っ暗なのだが、幸いにも月の光が強く、記憶とあわせればどこに何があるかくらいは把握できた。スマホの懐中電灯をつけて、慎重に進む。周りを高いフェンスに囲まれているとはいえ、ここは屋上だ。万一に備えて、用心はしておいたほうがいいと思った。

 貯水タンクのそばまでやってくる。この陰で、よく昼寝をしていた。日差しにさらされた屋上で、唯一の逃げ場がそこだったのだ。

『いや絶対頭とか腰とか痛いっしょ? つーかコンクリ熱そう。あ、逆に焼き土下座とかする?』

 途端に、思い出の中の茜が騒ぎ出した。あのくそ女、ほんとろくな記憶が残ってねぇな。思わず苦笑した。

 だが、良い。これで良い。とことん向き合いに来たのだから、騒いでもらおうじゃないの。

 俺は汚れるのも構わず、あの頃のように寝そべって、目を閉じた。

 思い出すのは、あの最後の日だ。

 屋上の貯水タンクの陰で、俺は両手を頭の後ろで組み、足も組んで、横になっている。持ち込んだ漫画雑誌はとっくに読み尽くし、ぼーっと空を眺めていた。ゆっくりと流れる雲の動きを目で追いながら、退屈におされてやってきた眠気に半ば支配されつつ、うつらうつらと過ごすいつもの午後だ。

「おいっすー。今日もヒマそうだなぁ」

 チャイムはだいぶ前に鳴ったので、今頃クラスメイトたちは、何の役に立つかも分からない授業を真面目に聞いているのだろう。そんなくそ真面目ちゃんたちを尻目に昼寝する俺。最高に優雅だね。

「おーい、無視ッスかー。そうッスかー。いやはや、可愛い反抗だねぇ」

 授業が終わるまでこのまま寝てるもよし、飽きたらバイクでどっか行くもよし。やっぱこういう自由な時間が大事ってもんよ。誰にも邪魔されないさあ!

「いやほんと、延々無視するとか可愛すぎて良い子良い子してあげたくなっちゃう。手始めにそのがら空きの土手っ腹に、一発蹴りでもぶち込ませてもらっちゃおうか、なッ!!」

「あっぶね!」

 俺は容赦なく自分に振り下ろされた足を間一髪で避ける。背中のほうで、足が地面にぶつかる音がした。こいつ、正真正銘寸止めでもなんでもなく、マジで踏みつけにきやがったな!

 そのままゴロゴロと転がって距離を取りつつ、即座に立ち上がる俺。視線の先では、ロングスカートを揺らしながら、ニヤリと笑うくそ女が見えた。

「ほーう。避けたか。余裕ぶっこいてる振りして、さては身構えてたな? ぷぷ、だっさ」

「勝手なこと言ってんじゃねぇ! お前なんぞの攻撃ならなぁ、ギリギリまで引きつけたってかわせんだよ!」

「あれぇ、『あっぶね!』って言ってたのは聞き間違いかなあー?」

「こ、の……くそ女……!」

 思わず拳に力が入る。いや、落ち着け俺。女に手をあげるのは、さすがに違う。

 俺は握った拳をポケットに突っ込み、小さく息を吐いた。

「なんの用だよ、茜」

「はじめからそういう態度でいればいいんだよ、トシ」

 くそ女こと雅茜は、満足そうに白い歯を見せた。それから、コンビニの袋を俺の前に突き出す。

「ま、一本どうよ。先輩のおごりってことで」

 中身は、一本数十円の氷菓子。よくこんなんでドヤ顔できたな。

 ……食べるけど。

「――で? 天下の毒華さんが後輩にアイス奢ってまで何をさせたいわけ?」

 涼しげな水色をしたアイスバーをかじりながら、俺は隣に言葉を投げる。俺と並んで貯水タンクに背を預ける女は、それだけで人を殺せると噂の視線をこちらに返した。

「毒華言うな。アイス返してもらうぞ、こら」

「奢るって言ったくせに、それはダサいんじゃないっすかねー毒華さん。大体、返せたってもう半分食っちまぐぼぉ!?」

 容赦ないつま先が腹に食い込む。あの座った体制から即座に足を伸ばして体を捻り、蹴りを入れてくるだと……。

「安心しろよトシ、食ったもん吐かせる手段はいくらでもある。ま、アイスどころか昼飯や朝飯、最後には血も混じってくるかもだけどなあ?」

 くそが。腕が届かない距離だからって油断したぜ……。

「つーかよ、お前があおるから話が進まねぇじゃねぇか。お前の世話焼いてやってる唯一の先輩の頼みだ、たまには黙って聞けよ」

「誰がお前に世話なんか……」

「黙って聞け」

「……チッ」

 仕方なく、先輩とやらの顔を立ててやることにした。

「……トシ、お前さ、仲間作んないの?」

 俺が黙ったのを確認すると、茜が立ち上がりながら、おもむろに言った。

「は……?」

 本気で意味が分からなかった俺は、きっとものすごく怪訝な表情を浮かべたのだと思う。

「あー、分かった。そうだな、そういう奴だよな、お前は」

 茜はそれに、なぜかちょっと嬉しそうな顔を浮かべて、その表情のまま、こともなげに告げた。

「あたしさ、今日でこのガッコ、やめるんだわ。転校ってやつ」

「――は……?」

 ……今度の俺の表情は、一体どんなものだったのだろう。

 茜の表情は変わらなかった。

「だからまあ、先輩として、最後くらい奢ってやるかーってトコよ。優しさよ、や・さ・し・さ」

 それどころか、いつの間にかいつもの調子に戻ってふざけ出す。

「それなのにこの後輩ときたら、人の気も知らないで文句ばっかり垂れやがる。ぶん殴ってやろうかと思ったぜ」

 わざとらしく、やれやれとばかりに首を振る彼女に、俺は……

 俺は、

「すでに殴っといて、よく言うぜ……」

 情けなくも、そう返すのが精一杯だった。

「改めて思い出すと、だせぇな俺」

 俺は十七のときに町を出た。茜がいなくなったこの町には、もう俺の居場所がなくなった気がした。

 ……なんてことはない、散々イキがって、一匹狼を気取っていた奴が、同じような仲間と出会って、別れることになって、寂しくなった。

 要はそういう話だった。

 俺は自分の体を起こす。いつかのあいつが言っていたとおり、コンクリートの硬さにやられた俺の背中や腰は悲鳴をあげていた。

 立ち上がって、フェンスのそばまで寄る。ぬるい夜風が前髪を揺らした。

『トシ、知ってるか?』

 ――その瞬間、ふと、記憶が蘇ってきた。

 あの日、あの後、何とか動揺を隠す俺に茜が言った言葉。

『今日、隣町で祭りがあるんだとよ。隣町まではあたしの庭みたいなもんだし、今日あるってのもあれだ、なんかの縁だろ。……行かねぇか? 食い物奢るぜ?』

 そうだ、あの時。

 あいつもちょうどこの辺に立って、髪を風に揺らしながら、そんなことを俺に言った。

『あたし、好きなんだよ。花火ってやつが。一直線に空にのぼっていって、一瞬のためだけに全力を尽くす。かっけぇだろ』

 俺は、それになんて返したのか、覚えていない。だが、茜と祭りに行った記憶はない。それが答えだろう。

「……そうか、このときの、か」

 フェンス前に仁王立ちするあいつの姿と、ずっと引っかかっていた記憶の影が重なる。背中に縫われた「我道」の文字が、鮮明に見えた気がした。

「繋がったは良いが、分からないことが増えちまったな……」

 あいつの誘いを、俺はなんて言って断ったのだろう。

 そして、断られたあいつは、何を呟いたのだろう。

 あの目は、どういう気持ちだったのだろう。

 ……俺は頭を掻きながら、田中のおっちゃんからもらった紙たばこに火を点ける。

 花火の代わりの点火式。

 久しぶりに吸った懐かしい味は、少しだけ苦かった。

———————

本作は、朗読、ラジオドラマにご活用いただけるシナリオとして、「HEARシナリオ部」の活動内で作成いたしました。

ご使用の際は、説明欄等に、以下クレジットをご記入いただけますと幸いです。

また、音声投稿サイト「HEAR;」での投稿時には、タグに「あの頃屋上に俺達はいた」もしくは「HEARシナリオ部」と入れていただきますと、作成いただいたコンテンツを見に行くことができるので嬉しく思います。

○クレジット

シナリオ作者:柚坂明都(ふぁいん) https://hear.jp/finevoices

シナリオ引用元:それはまるで大空のような https://fineblogs213.com/we-were-on-a-rooftop-back-then

コメント

タイトルとURLをコピーしました