生きるのがつらい

自作小説でもなく、商品や作品のレビューでもなく、はたまた誕生日や年末年始でもない。なんでもない日にブログ記事を更新するのは久しぶりかもしれません。

そして、そんな珍しい更新記事のタイトルがこれ。今、これをお読みになっている皆様が、どういういきさつでこの記事にたどり着いたのかは分かりませんが、普段の私をよく知っている人であればあるほど、イメージとはかけ離れた印象を持たれるかもしれません。

しかしながら最初に申し上げておきますと、私は元気です。いえ、それも正確とは言えないのですが、少なくとも「死のう」だなんて1ミリも考えておりません。私の現状を端的に申し上げるならば、少々眠く、少々空腹で、何となく疲労感がある。そんな、平凡極まりないステータスをしています。仕事終わりのサラリーマンならば、いや、サラリーマンでなくとも、日々、生き抜いている大人、もしくは学生であっても、体感したことがあるであろう状態異常です。「大多数の人間が感じたことのある感覚」であるがゆえに、これを「普通」と呼んでいいのであれば、全くもって普通の状態であると申し上げたいと思います。

では、「生きるのがつらい」とは誇大なタイトルなのでしょうか。コンテンツがあふれる現代において、少々刺激的なタイトルでもって受け手を誘導するのは、その是非はさておき、ありふれた手法です。賛否はあるかもしれませんが、それもまたさておきまして、私がそういう意図でもってこのタイトルをつけたのかと言うと、そういうことではありません。正しく、と、言うのも妙な話ですが、

私は間違いなく、生きるのがつらいと感じています。

しかしながら皆様に誤解していただきたくないのは、「生きるのがつらい」=「死にたい」ではないということです。「生」の対義語は確かに「死」であるかもしれませんが(読み方によっては「加工」かもしれないし、ステーキなら「ウェルダン」かもしれませんが、そういうくだらないことを言っていると話がいつまでも進まないのでかっこの内に留めておきます)、「生きるのがつらい」場合の願望が「死にたい」だと考えるのは、唐揚げにとりあえずレモンを搾ってしまう奴くらい安直と言わざるを得ません。なお、この例えが適切かどうかは私にも分かりません。

もちろん、何もかもを投げ出して死にたいと思う人もいるでしょう。そういう人に対しては、一般論を振りかざして「命を粗末にするのは良くない」と言うこともできますが、私自身の本音を言うなら、どこの誰とも知らない人がその選択をするのであれば、私の関知するところではないし、生きるのがつらい世の中なのは確かなので好きにすれば良い、と思います。

仮に目の前で、初対面の人が「つらいので死にます」と言うのであれば、そこは植え付けられた倫理観的に「どうぞ」とは言いませんし、「どうしたんですか?」くらいは質問すると思いますが、最終的に止めるかどうかは分かりません。初対面の人に目の前で「死にます」と言われたことがないからです。多分、動揺はするだろうな、くらいしか予想はできません。ただ、間違いなく、こうは思うはずです。

私はその選択をしないけどなあ。

余計な話をするのが好きなせいで、繰り返しになって恐縮ですが、私は生きるのがつらいと思っています。だからこそ今回、このタイトルをつけています。

しかし、死にたいとは思っていません。むしろ、「生きたい」と思っています。「つらくない方法で生きたい」と思っています。とてもとてもそれを望んでいます。

生きていると、日々、つらいことが降りかかってきます。仕事はしたくないし仕事はしたくないし仕事はしたくない。私の場合、残念ながらつらいことのほとんどが仕事に起因しています。

今の仕事がつらいなら、転職すれば良いじゃない。

そう思われるかもしれませんが、そういうことではありません。今の仕事が好きか嫌いかで言うと多分好きです。が、それはあくまで「仕事をする」前提で考えたときに「他の仕事と比べて」好きだという話です。私は、仕事をすること自体が好きではありません。

では、家でごろごろしていたいのかと言えば、それはそれで不正解な気がします。家でごろごろしていたとして、絶対に1ヶ月くらいで飽きるからです。動画を見て過ごしていても飽きるだろうし、漫画を読んで過ごしていても飽きるだろうし、もしかすると無能感や孤独感といった別の悩みが浮上してくるかもしれません。それはそれでつらいです。

その事実を踏まえて正しく言い直すならば、私は、「仕事をするしかないから仕事をする」のが好きではないのです。なぜ人生において、仕事は「する」しか選べないのか。それ以外のルートを選ぶと行動に制限がかかるのか。資本主義社会ってなんなのか。とにかく、自分の意思で自分の行動を決められない状況につらさを感じているのだと思います。

働きたいだけ働き、寝たいだけ寝て、食べたいだけ食べ、話したいだけ話す。人生が1回しかないのであれば、そうあってくれよと願っています。しかしそれが叶わない仕組みであることも分かっていて、分かっていながら生きることがつらいのです。

嘆いてばかりいないで行動しろ、と人は言います。なんなら私も、その意見に賛成側の人間なので、そういうことを口走るかもしれません。この資本主義社会におけるルールとして、何かを得るためにはお金が必要で、お金を得るためには何らかのアクションをしなければならない、と定められています。ゆえに、「何らかのアクションはしろ」という強制力に従う必要が出てくるわけで、それが「嘆いてばかりいないで行動しろ」なのです。だからこそ私は言いたい。

それが嫌だと言っているのです。自分の心がやりたいと思ったことだけやりたいのです。まあ、なんてわがままなのでしょう。

でも、だって。死んだ後に別世界で2周目の人生が送れるかどうかは死なないと分からないし、天国みたいなところで悠々自適に暮らせるかどうかも死なないと分からないし、死んだ後にこのつらさから解放されるのかどうかも分からないのです。我々にとって確実に言えることは、今、この世界で生きていると感じている、ということだけです。本当はこの状態が死である可能性もありますし、実は誰かが作った虚構世界であって、私はその登場人物に過ぎない可能性もありますが、少なくとも、今、この世界で生きていると私は感じています。その感覚だけは、信じてもいい、信じるしかないのです。であれば、「生」を感じられるこの世界で、本当はこうやって生きたいんだと願うしかないじゃないですか。

もし、これを読んでいるあなたも生きるつらさを感じているのなら、その感覚に潜む本音がなんなのかを考えてみてはいかがでしょうか。死ぬ気だったのが変わるかもしれませんし、「死」を望んでいるのに気づいてしまうかもしれませんが、本音に従うことが、ひとつの幸せであると私は思っています。

そしてもし、あなたが「したい」と感じたなら、こうしてアウトプットしてはいかがでしょうか。したいことをしている間は、きっと少しだけ、つらくないと思います。

コメント

タイトルとURLをコピーしました