「う……」
男は、土の上で小さくうめいた。起き上がろうとするが、左の脇腹と右膝がひどく痛んで力が入らない。身を起こせぬまま、何とか手探りで腰の鞘を抜き取ると、それを支えにふらつきながら立ち上がった。
あたりは深い森だった。それでも、わずかに覗く日の光から、一晩明かしたことを悟った。
「私は……ぐッ!!」
状況を探ろうと、無意識に見回そうとして、脇腹の痛みに顔をしかめる。おそらく、骨の数本は折れているだろう。だが、今こうして目覚めることができたことを思えば、奇跡的に内臓は無事なのかもしれない。折れた骨が刺さっていれば、命を落としていた可能性もある。
また、出血がなかったのも幸いだった。血が流れていれば、よくて貧血、量によってはやはり命を落とす。それでなくとも、ここは森だ。おそらくは、血のにおいを嗅ぎつけた獣に襲われていたことだろう。男は、自身を覆う鎧に深く感謝した。生きて戻れたら、この鎧を手がけた職人に褒美を与えようと誓う。
男の剣は、すぐそばに落ちていた。意識が明確になり、呼吸をするだけでも痛むようになった体を引きずりながら、どうにかこうにかそれを拾う。身をかがめては苦悶の表情を浮かべ、腕を伸ばしてはうめく男に、果たして剣を振るうことなどできるのかは定かではなかった。が、今、男が居るのは、どこに何が潜むか分からぬ森。武器が心の支えになるのは確かだった。
剣を鞘に収め、そのまま杖のようにして森を進む。左をかばえば右の膝が、右をかばえば左の脇腹が悲鳴を上げたが、男は生き延びるために声をこらえた。一晩、あの場に放置されていたということは、自分達を襲った敵兵は一旦引いたのだろう。だが、男の身分を考えれば、再び捜索の手が伸びてくる可能性は大いにあった。いや、すでにすぐそばまで来ている可能性すらある。だからこそ男は、気配を殺した。殺したまま、ゆっくりと進んだ。森の出口が分かるわけではない、味方が生き残っているかも分からない、けれども、男は一歩、また一歩と踏みしめる。再び歩みを止めれば、そのまま命が尽きることを感じていた。
そんなあがきが天に届いたのだろうか。気がつくと男は、木々の密集地帯を抜け、少し開けた場所にたどり着いていた。森を抜けきったわけではなさそうだが、遮るものなく陽が降り注ぐそこは、緊張しきっていた男の心をほぐすには十分だった。身を隠せなくはなるが、逆に言えば、敵にも気付くことができる。戦えるかは分からないが、気付けず死ぬより、少しでも抗って死ねるほうがマシに思えた。
何より男にとって救いだったのは、水の音が聞こえたことだ。それだけで気力が湧き、痛む体を引きずる速度も心なしか早まる。澄んだ小川の水を口にしたとき、男の心には希望が生まれ始めていた。
男は初めて、少しだけ休もうと決めた。十分に気配を探り、周囲に何もいないことを確かめてから、たまらず地面にその身を投げ出した。
全身の疲労が、地面に流れ出ていくような心地だった。相変わらず体は痛むが、陽の光に温められて、少しだけ癒やされるような気がした。空は、雲一つなく青々と広がり、太陽は、ちょうど真上に見えた。ずっと時間が分からなかったが、どうやら昼時らしい。男は空腹を思い出し、
「はは……はははは!」
そんな自分を笑った。どうしようもなく「生」を感じた。きっと何とかなる。何とかできる。そう思えた。傷の痛みを抱え、しかめ面で笑ったのは初めてのことだった。
「ははははは……は?」
――その希望に影を差したのは、空からやってきた影だった。
最初は、目に埃が入ったのかと思った。だが、豆粒大のそれが徐々に大きくなるにつれて、こちらに近づいてきていることを悟った。男は目を細めて、それが何かを見定めようとした。見定めようとして、それどころではないと気づいた。
「う……うおおおおおおおお!」
笑い声が悲鳴に変わり、身をよじって転がりながらその場を離れるまで、数秒もかかなかった。
ズシン。
それが降り立つと、地面が揺れた。
ズシャ。
それが首を振って地面に転がしたのは、馬具がついたままの馬だった。
バサ。
それが音を立てて畳んだのは、ヒト三人分はあろうかという巨大な翼だった。
男は、地面に寝そべりながら体を震わせ、ただただその姿を見た。日光を反射する鱗、血にまみれた牙、それに劣らずの威力だろう爪。
男の脳裏から希望は消え、そして、なぜ自分がゆうべ、獣に襲われずに済んだのかを理解した。
このあたりは縄張りだったのだ。奴の……あの大いなるドラゴンの!
鎧がカチャカチャと音を鳴らした。男は鎧に怒りを感じた。今すぐ脱ぎ捨ててしまいたかった。あいつに……あのドラゴンに気付かれたらおしまいだった。いや、きっともう、気付いてはいるに違いない。ただ些末なものとして、気にされていないだけなのだろう。もはや、体の痛みなど感じなくなっていた。男はただ、天に祈った。
そのときだ。
<そう恐れるな、人の子よ>
天は、男に言葉を返した。
「な……、え……?」
脳裏に語りかける声に、男は言葉を紡げなかった。
<我は人の子など食わぬ。何でも食べるお前らより、草しか食べぬこやつのほうが味がよい>
「は……ま、まさか……」
ようやくわずかに声に出せたとき、男はそれが、神の声ではないことを悟っていた。
<言葉を紡げるのが自分達だけだと思わぬことだ。人の子よ>
それは、目の前の『彼』の声だった。
――王国歴三十年、ドルクディア王国。
建国記念日と王位継承セレモニーを明日に控えた首都・ドルクスは、より一層の活気に満ちあふれていた。
整備された街道を、民や商人、物流の馬車などが行き交い、露店に商店に、人の声と笑顔が飛び交っている。
そんな城下を眺めながら、この国の主、ドレイクは遠き日に想いを馳せていた。
「……あの日。あの、生と死を実感した日。あのときから、この国の全ては始まったのだ。なあ、トーマス」
「左様でございますな。陛下がご友人の背に乗って舞い戻られた日を、昨日のことのように覚えております」
「彼は、この身を見て何と言うだろうか。初めて会ったあの頃よりはずいぶん立派になったと思うが」
「そうですね……案外、老けたと笑われるかもしれませぬ」
「ふっ……ははっ! かもしれぬな。彼にとっては、王冠や、きらびやかな鎧など、意味があるものではないだろう」
「陛下の命を救った名工が鍛えし鎧、なのですがね」
「それこそ、あの爪の前では意味がないと笑われそうだ」
「いやまったく」
ドレイクは、彼の信頼する側近と静かに笑い合った。こうした日々を過ごせるのもまた友のおかげ、とドレイクは思う。
そのうちに、予定された時刻がやってきた。
「お時間でございますな、陛下。カドムス王子を呼んで参ります」
「私も行こう。彼が息子を気に入ってくれるといいのだがな……」
ドレイクは身を翻した。その背を彩る紅のマントには、金色のドラゴンが刻まれている。
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本作は、朗読、ラジオドラマにご活用いただけるシナリオとして、「HEARシナリオ部」の活動内で作成いたしました。
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シナリオ作者:柚坂明都(ふぁいん) https://hear.jp/finevoices
シナリオ引用元:それはまるで大空のような https://fineblogs213.com/old-friendship
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