すれ違いざま、ジャケットの右ポケットに何かが滑り込む感覚があった。俺は何事もなかったように歩き続け、そのまま男子トイレへと姿を消す。
個室に入り、ポケットを漁れば、葉書サイズの白い封筒がそこにあった。蝋の紋様も、間違いない。ボスからの指令だ。
そろそろだと思っていた。来たるXデーから逆算すれば、時期は容易に推測できた。そのための準備もすでに整えてある。何も問題はない、うまくやれるはずだ。
俺は真っ赤な蝋の封を解いた。いつものように、カードが一枚入っていて、小さくメッセージが記されている。
美シキ純白 ソレハ数多ノ世界ヲ内包セシ筺
手二スレバ 世界ヲ旅スル神トナルダロウ
手二入レヨ 我ハ世界デ戯レルヲ欲ス
……なるほどな。
俺はカードを便器に落とした。水溶性の素材でできたそれは、みるみる溶けて消えていく。流してしまえば、もう誰の目にも留まることはない。
指令は完全に理解した。今回のターゲットは、入手困難と言われた例のブツに違いない。すでに俺の頭の中では、手に入れる目算が立っていた。あとはただ、実行するだけ。
必ず成功させてみせる。今回のミッション、いや、違うな……。今回の計画は、俺の人生をかけたものになるだろう。失敗する可能性は低いと見込んでいるが、万一のことがあれば俺自身、どうなるかは分からない。深刻なダメージを受け、再起不能となるリスクがある。
今一度綿密に計画を見直し、相応しい舞台を用意せねば、な。虚を突かれ、驚愕に染まったボスの顔を、早く見たいものだ……。
「こ、こんなとこ……本当に大丈夫? 場違いじゃない? いや場違いだよ。やっぱり私帰る……!」
「いやいや待て待て、大丈夫だって! たまには良いだろう? これくらい盛大にやったって」
「たまにはって……たまにどころか人生で初めてだよこんな高そうなとこ! 個室だし!」
――Xデーはすぐにやってきた。俺は、恋人の楓を連れて、夜景の見える高級レストランにやってきていた。
「いきなり美容院に連れて行かれたから変だと思ったんだ……こんなドレスまで用意して……」
「まあ、さすがにこのレベルになると、あるからな、アレが」
「あ、アレって……まさか」
「「ドレスコード」」
「……マジかー。私の人生には縁がないと思ってたよ」
「それは俺もだ。でも……きれいだよ、楓」
「ばっ……ちょっ……は? は? え?」
「……すまん、ちょっと格好つけすぎた」
「あ、謝らないでよ……びっくりしただけで、う、嬉しくは、あるし……」
「いや、やっぱりすまん。この程度でびっくりしなくて済むくらい、いつも褒めるべきだよな」
「ちょっ……そんっ……それはっ……! いつもきれいにしてない私が悪いわけで……すっぴんだし、寝不足だし、クマも肌もひどいし……」
「人気週刊連載漫画家じゃしょうがない。それに、それはそれで素敵だと思ってる、俺は」
「……私を恥ずかしさで殺す気? 今すごいこの窓を突き破って死にたいよ私。誕生日が命日になるよ?」
「それは困るな、今日は俺も命をかけてるんだ」
「え……?」
「余裕ぶってたけど、実は緊張で死にそうでな……だから、ごめん。本当は最後に渡すつもりだったけど、先に言う」
俺は、胸ポケットから白い箱を取り出した。
「結婚してくれ、楓。一緒に幸せになろう」
――こうして、俺の人生をかけた計画は無事に完了した。泣き出すのは想定と少し違ったが、我がボスの驚いた顔がちゃんと見られたので満足している。
……結果がどうなったかって? 無事に完了したって言ってるんだから察してほしい。
得た報酬は、一生の愛。……これも格好つけすぎか? お詫びに、俺からも彼女に同じだけ、愛を捧げることを約束する。一生かけて、な。
……ちなみに。
「そういえば、欲しいって伝えたプレース○ーション5は?」
我がボスは、自分が出したミッションのことも忘れてはいなかった。今日の一連の計画は、あくまで俺独自の計画。彼女から出されていたミッションは別にある。その正体は、次世代高性能ゲーム機の入手だった。
もちろん俺もスーパーエリートなボス専属エージェントの誇りにかけて、ミッションはミッションできっちりクリアしている。
「俺ん家にあるよ」
「わーい。じゃあこのあと寄って帰ろー。……いや、我慢できないから泊まってく! 一緒にやろうぜぃ、我がエージェントよ」
「我がボスの御心のままに」
「お、そのポーズいいね最高。スーツでやると絵になるね! インスピレーション湧いてきたあ! 今度漫画で使うわ」
「……スパイ漫画の連載が始まって早三年。まさか毎年こんなスパイごっこが続くとはなあ」
「我ながら無茶ぶりかなあと思ったけど、付き合ってもらってありがとね。やってみたら、思ったより楽しくて」
「まあな。俺も最初は恥ずかしかったけど、今じゃわりと楽しんでる。――でも舞ちゃんには感謝だなあ。毎度こんな茶番に付き合ってもらって」
「ああ、あの子なら大丈夫大丈夫。結構ノリノリなのよ。今回も仕事そっちのけで手紙の受け渡しの練習してたし」
「いや仕事はしろよ……。でも確かに、実に手際のいい仲介役だったよ。すれ違いざまに手紙を入れるのなんて難しいはずなのに、めちゃくちゃ自然だったしな」
「でしょ。器用なのよ、あの子。それに、アシスタントなら漫画のために協力しないと」
「その理屈が通るなら、大変すぎないか? 漫画家のアシスタント。……なんにせよ、舞ちゃんにも報告しないとな、今日のこと」
「元々私たちを繋げたの、あの子だしね」
「出会いも仲介してくれるなんて、ほんとに腕の良い仲介屋だな」
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本作は、朗読、ラジオドラマにご活用いただけるシナリオとして、「HEARシナリオ部」の活動内で作成いたしました。
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○クレジット
シナリオ作者:柚坂明都(ふぁいん) https://hear.jp/finevoices
シナリオ引用元:それはまるで大空のような https://fineblogs213.com/directive-from-the-boss
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